スリラーとホラーのちがい2

 で、JホラーやKホラーは、どうか。『リング』(1998)や『呪怨』(1999)など、たしかによくできている。が、正直なところ、ポスターを見ると、恐いというより、笑えるのではないか。子供が白塗りして、白パンツで、いったいどこが恐いのか。そのかっこ、ただのバカだろ。おまけに、『宇宙戦艦ヤマト』じゃあるまいに、続編に次ぐ続編で、テーブルにこぼれた酒の染みまでなめ尽くすようなマーケティング

 とくにいけないのは、続編になるほど説明がくどくなることだ。亡霊が恐いのは、テレビの画面から溢れ出てきてしまう、とか、タンスの中に入っている、とか、常識的な物語コードを根底から突き崩すからであり、これに対して、説明は、むしろ逆に物語コードに載せ直すことだからだ。そして、物語コードは、時と場を限定して、亡霊をそこに閉じ込めてしまう。しかし、ホラーは、自分のホラーでなければ意味がない。いま自分がいる部屋の窓の外に立っているかもしれない、というのでなければ、ホラーにはならない。

 本来、極東ホラーは、物語コードからの溢れ出しを構造的な特徴としている。もちろん、そういうスタイルが欧米にないわけではない。『ファイナル・ディスティネーション』など、まさにこの物語からの溢れ出しがテーマになっている作品だ。しかし、無差別に化けて出て、なんでも呪い殺す、というのは、極東ホラーの特徴だろう。

 常識的に考えれば、亡霊は、怨みを持つ相手がいるわけで、その相手につきまとって呪う、というのなら、筋が通っている。例の東海道など、この典型だ。しかし、筋が通っているくらいなら、ホラーにならない。極東の亡霊の恐いところは、その亡霊がサイコパス(ようするに気ちがい)化しており、無差別殺人を、それも超常現象によって犯すところにある。こうなると、逃げようもないし、そもそもだれにとりつくかもわからない。だから、スリラーではなく、ホラーになる。

 この根には、殺人というものが、悪意の単独犯によるのではなく、じつは社会もまた共犯であった、という極東社会の独特の原罪意識があるように思われる。その殺人は、社会的に事前に防ぎえたにも関わらず、それを無視し、放置し、事件に至らしめてしまった。その原罪意識がホラーを反転させ、亡霊を無差別呪殺に走らせる。自分がどこで逆恨みを買っているかわからない。実際、そういう逆恨みが社会に蔓延している。

 この特徴は、『ハロウィン』(1978)、『13日の金曜日』(1980)、『エルム街の悪夢』(1984 )などと比較してみるとよくわかる。誤解されがちだが、マイケルやジェイソンは、すくなくとも第一作では、生身の人間で、怨みに狂った殺人鬼だ。(フレディだけは、亡霊で、悪魔によって蘇り、人の悪夢の中に出てくる。)しかし、いずれにせよ、彼らは、かならずしも無差別に人を殺すのではなく、自分を不当に扱った(と彼らが思い込んでいる)家族や関係者への復讐を目的としている。したがって、彼らは、つねに冷静にこの自分の目的に向かって突き進むのであり、だれになにをするかわからないサイコパスではない。(もちろん、この目的遂行の途中で、標的外の人々も事件に巻き込まれてしまうのだが。)

 一方、JホラーやKホラーは、確かにホラーだ。というのも、不特定多数を怨んで何をするかわからない、死せるサイコパスが不特定多数、そこら中に存在していると思われているから。この世は、覚えのない怨みに満ちている。こういう独特の不安な宗教的世界観を抜きに、Jホラーをハリウッド翻案しても、亡霊スリラーにしかならないのではないか。

つづく。


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