世界を救う、という妄想2

 世界を救う、という以上、なにかで滅びそうでないとならないはずで、それは、かつては核兵器と相場が決まっていたのだが、世紀末の世界救済の物語は、なにがなんやらよくわからない。それで、世界が滅ぶとはどういうことなのかを解明することそのものが、世界を救う使命と同一になる。

 しかし、カントに言わせれば、世界、などという概念は、超越的理念であって、統整的には用いることができても、認識や行為の対象とはなりえないものだ。ハイデッガーの言うように、我々は世界の中にいるのであって、我々がいる世界そのものは、我々には見えず、行為の対象となりえない。

 とはいえ、昨今、たしかに、世界へ発信したり、世界とつながったり、世界はじつに身近なものになった。しかし、そんなのは、砂浜に文字を書いたのと同じ。よほど個性がないと、検索にすらひっかかりもしない。ようするに、一言で言ってしまえば、世界なんかへ、宛もなく発信したり、つながったりしている連中は、世界から疎外されているのだ。

 こんなことは、路上で考えればよくわかる。有名人や専門家は、多い、少ないの差はあるにせよ、一定のファンを持っている。また、ふつうの人でも、近況を伝えるべき知人や、自己紹介をして新しい友達を募集したりすることはあるだろう。しかし、まともな人なら、不特定多数の世界に、宛もなく「発信」したりしない。それは、むしろ、世界の中に連絡する相手がだれもいない、ということを暴露している。そして、実際、だれも来はしない。

 世界を救うなどと世界を対象化できるのは、世界の中にいないから。世界ではない部屋の中に引きこもっている。というか、世界の側から排除され、押し込められている。彼らは、世界について、自分の部屋の外について、具体的で複雑で不可解な実際の世界についての体験を持っていない。そういう機会そのものさえも、奪われている。彼らに対し、世界の扉は、かたく閉じているのだ。

 彼らにとって、、世界を救う、ということは、じつは、もしも自分だけが唯一無二の救世主だったりすれば、世界の中に入れてもらえるのではないか、という、根拠のない期待だ。つまり、世界を救うことによってのみ、王子でも王女でもない、つまらない自分自身が救われる、ということを意味している。

 だから、救う、と言っても、なにから救うのか、自分でもわかっていない。それどころか、いっそ、戦争や大災害でも起こってくれないか、と思っている。そうすれば、きっと自分にも出番があるんじゃないか、と、かってに信じている。

 こういうニュータイプの阿Qどもが、世界的に溢れている。彼らは、自己が確立しておらず、そのアンチテーゼやジンテーゼである世界や神も、そこらにある犬や机と同類のものとしか理解できない。そのうえ、物語そのものも、マンガや通俗的な宗教解説本からの寄せ集めで、現実の世界の救いがたい複雑困難な現実には目を向けようとしない。

 実際、過去の戦争の始まりは、いつもそうだった。国内不満層の内憂を適当な外患にぶつけて共倒れにさせる、というのが、政治の常套手段だ。あとになって、戦争はイヤだ、こりごりだ、と言うが、歴史を振り返れば、その始まりは、みんな幸福感に溢れている。それは、無名の市井の人でも、英雄として、救世主として意気揚々とパレードしていくお祭りだからだ。

 ほんとうの現実は、いかんとも救いがたい。人の手に負えるようなものではない。そして、だからこそ、そこに救いの道を求めるのであって、自分で救えるなどと思っている連中は、たぶん永遠に救われまい。しかし、世界が救えない、というか、自分が救世主になれない、救世主となって自分が救われることがない、と気づいたら、連中は逆恨みして、彼ら自身が世界を滅ぼす側に廻る。それが恐ろしい。


純丘曜彰ブログ速報版はこちら:http://sumioka.justblog.jp/blog/