錬金術的な物語

 そもそも物語が大きくなりすぎたのだ。物語などというのは、炉端で数人に、それどころか密室で一子相伝に話すものであって、話すということは、秘密を伝えることにほかならない。にもかかわらず、数百万人に無差別に話す、同じ物語を共有させる、などということ自体、行動経済成長期の中産階級の異常さだったのだろう。それは、むしろプロパガンダによるイデオロギー、大衆幻想そのものだ。

 近世以前の本や絵には、だれにでも読めるように見えて、わかる人にだけ大切なことを伝える方法があった。やたらわかりやすい物語、というのは、ウソだ。現実がこんなにわかりにくいのだから、わかりやすくしてしまった時点で、ウソだらけになってしまう。かといって、真実をあからさまに語れば、コンプレックスのために、わかっていない人々は、それに強い反発を起こし、真実そのものではなく、真実を暴露しようとする物語の方を攻撃する。だから、真実のわかりにくさを、わかる人だけにきちんと伝える手段として、錬金術的な表現手法が生まれた。

 錬金術的な手法というと、パノフスキーのイコノロジーのような象徴文法が、一般によく知られているが、あれは、錬金術とは、まったく関係がない。というより、むしろ正反対のものだろう。

 本来のその手法は、こうだ。虹を語る。すると、ふつうのひとは、そこに虹を見る。ああ、きれい、と。ここが、シロウトを煙に巻くために重要なところ。しかし、じつは、最初から虹なんかどうでもいいのだ。読む人が読めば、その虹が東を指し、夕方になって暖かい海からの平野の風が弱り、冷たい山からの谷風とぶつかりあったのが見え、自分の真後ろにあるにある真っ赤な太陽まが、ありありと見えてくる。ひとつのものが、世界全体を映し出しており、そして、そのものを凸面鏡として全体の配置状況を見えるひとだけが、次のものとのつながりを見出すこともできる。

 ガダマーが言うように、ウソは、ウソであることにおいて、そこに真実が語られている。しかし、ウソはウソであることをけっして自分では告白しないし、ウソはウソで完結している。ところが、プラトンよろしく、そのウソが影にすぎないことを知っている人には、そのウソから、そのウソを成り立たせている真実を読み解くことができる。


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