マンガ雑誌がつまらないわけ

 マンガ雑誌でも、まったく同じことが起きている。大きくなりすぎたのだ。

 知っての通り、マンガ雑誌そのものは儲からない。それは、民放テレビが無料なのと同じことだ。しかし、それに依存して喰っている人間はあまりに多い。新聞販売が赤字なのと違って、マンガ雑誌が無くなったら、街の一般書店やキヨスクは成り立たなくなってしまう。

 一方、出版社としては、他の書籍の過半がどうにもならない状況で、とにかく、マーケティング媒体であるマンガ雑誌を中核に、その単行本化で驚異的な収益を得るシステムができあがってしまった。マンガという巨大エンジンなしには、他の書籍の出版を支えることができない。

 こうなると、連載マンガは、言わばリングの上で、倒れずに立ち続けていることだけが目標になる。あの連載が終わったら買うのをやめよう、と思っている購読停止予備軍がいっぱいいる。出版社の方も、それを知っているから、連載を終われない。しかし、そのために、オチが見えないから、ゆっくりとしだいに読者の心は離れていく。一方、いまや、新連載が始まったって、ぜんぜん読者が増えない。いかに、いまの読者をだまし続けるか、だけで成り立っている。

 ところが、悪いことに、いまどきのマンガ好きなどというのは、一般市場から遊離した連中だ。やたら声が大きい彼らの嗜好に合わせていると、どんどん一般読者が黙ってそっぽを向いていく。本来、買った客より去った客を大切にするのがマーケティングの基本中の基本なのだが、マンガ雑誌は、その基本ができていない。

 アンケート主義で悪名高いジャンプの、とくに、その初代編集長の長野規は、それができた。単純な結果としてのアンケート分析ではなく、声になっていない声を拾い上げ、客になっていない客を吸い上げる方法を知っていた。そして、なにより、彼自身に、そういうマンガ雑誌の外の客にぜひ読ませたいと思う作品像が明確にあった。

 たとえば、いまどき青年誌だって、あんな「偏向」した『はだしのゲン』なんか連載させるだろうか。会議でつぶさせるのが当然だろうし、それを擁護して発言する編集者だっていないだろう。しかし、それは、あのころ、仲間内だけで御立派なマンガ論を語っていて凋落したマガジンやサンデーと同じ道だ。

 とはいえ、マンガ家の方にも問題がある。自分が、描きたいだけ。自分が、マンガ家になりたいだけ。絵を描くのは好きだが、そこに伝えたいものがない。というより、人に伝えたいほどがあるほどの、社会性がない。だから、編集者や原作者がつかないと、1ページも描けない。

 しかし、本来は、だれでもいいから、このことはぜひ描いてほしい、と思うようなネタこそが重要だ。そして、だれもほかに描いてはくれないから、下手でもなんでも、しかたなく自分が描く、という熱意が重要だ。水木しげるだって、赤塚不二夫だって、白土三平だって、売れるとか売れないとかいう問題以前に、自分のイメージを描かずにいられない内的な焦燥感を抱えていた。

 本来、作家が入れ替わり立ち替わりできることが売りの雑誌なのに、描かなければならない外的な脅迫感だけで、描きたいとも思っていない同じ作家の連載を続けていて、おもしろいわけがない。そもそも誠意に欠ける。描けない、描きたくない、となったら失踪してしまう吾妻ひでおつげ義春のような誠実さもなしに、良い作品が描けるわけがない。

 連載責任だのなんだの、ガキのくせに、大人ぶるほど、子供っぽいことはあるまい。子供相手に真剣に子供になりきる心がなくて、いったいなにをつかめるのか。喫茶店でも、ラーメン屋でも、はや手に取る人もいない、携帯のシロウトメール以下の魅力しかなくなってしまっている現実をどう思っているのか。まあ、オモチャ屋その他のスポンサーがついてアニメ化され、キャラクターグッズになり、単行本が死ぬほど売れているのだから、ぜんぜん気にすることもないか。


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