作家のディレンマ3

 さて、問題は、第三極だ。ふつうの作家は、べつにそれほど社会的に有名でもない。そればかりか、タレント本と各種文壇本の出版社と愛読者の布教攻勢に圧倒され、市場は狭まっている。そもそも、容易には本屋の棚にすら置いてもらえない。新刊で並んでも、さらに大量の本が出版されているから、すぐ取り次ぎに返本されてしまう。この状態を、どう打開するのか。

 作家のディレンマの一つの解決は、多きに付くことだ。芸として、タレント本の雑学に近いものを展開してみせる。野坂昭如橋本治林真理子阿刀田高景山民夫嵐山光三郎浅田次郎など、なんでも書けるのだが、いわゆるマーケット・インという手法で売れ筋を狙う。小説や映画でも、そうだ。テレビドラマなども、ほとんどこのマーケット・インの方法で創られる。だから、企画書に設定しかない。本音を言ってしまったら、喰っていくために書いているだけで、べつにそれで語りたいことなどないからだ。ところが、幸いに、それでも、ほんとうに売れる。そして、売れるから、タレント作家になれる。

 しかし、こんなことをしていても、プロの作家としての憤懣が高まるだけ。それで、たとえば、野坂昭如が、タレント本作家であるにも関わらず、どうしてもプロダクト・アウトで書きたい、書かないわけにはいかない、として、『火垂るの墓』を書いた。富野由悠季は、『海のトリトン』の最終回で、勝手に自分の世界観をぶちまけた。大塚康生は、やりたい放題で、原作とはかけ離れた『ルパン三世』を創った。しかし、こういうのは、たいてい、おそろしいほどの失敗作になる。

 ところが、興味深いのは、マーケット・インで作った作品は、まず残らない、ということだ。逆に、プロダクト・アウトの作品は、ロング・レッグを持っていて、十年近くかかってカルト的傑作に化ける。つまり、いまある市場は、かならず去る。『男女七人夏物語』のようなトレンディドラマなんか、時代が変わってから見られたものではない。一方、強烈な独創的世界観を持つ作品は、致命的な失敗作に見えながらも、やがてその世界観そのものが市場を作り出す。しかし、それには時間がかかる。

 さらに興味深いのは、タレント本はもちろん、文壇本でさえもまた、しょせんは実質的にマーケット・インで作られているために、瞬間最大風速的に評価され、販売され、捨て去られる。とくに、人気マンガの寿命の短さは、いったいどうしたことだろう。読者の世界観が去ってしまうと、作品を支えていたもの自体が崩れてしまう。マンガは、絵と余白できているために、文学以上に、その読者の世界観の支えを失えば、まったく読みえないものになってしまう。しかし、その一方、横山光輝の『三国志』は、実際にいまも読まれ続け、売れ続けているのだ。