作家のディレンマ2

 もちろん、幸せな「作家」もいる。読者や観客と、もともと同じ世界観を共有しているような人だ。雑談を書いただけのタレント本が売れるのも理屈で、それはまれに芸として読者や観客と同じふりをしていることもあるが、ほんとうにその程度の世界観しか持ち合わせていない、という場合の方がほとんどだろう。よく言うように、中学生レベルに合わせると、マーケットシェアは最大になるのであり、大人になっても中学生レベルの世界観(学歴の問題ではなく、すべての物事が象徴的で羅列的で雑学的)を持ち合わせている人は、人気者になれるし、本も売れる。小説を書けば、すぐドラマ化される。

 実際のところ、それはシロウトと同じものなのだが、世間の人々は、自分たちと同じものを有名な人が共有し、自分の代わりに、大金を稼ぎ、東大卒の連中なんかより立派になるのを喜ぶ。(しかし、それだけ、自分がより貧しく、無名になる、ということには気づかない。)

 これとは別の幸せな作家もいる。かなり特殊な世界観を持っているのだが、同じ種の特殊な世界観を持つ読者たちに見出された人だ。それも、その読者たちがエスタブリッシュでなければならない。マルキ・ド・サドだの、澁澤龍彦だの、大江健三郎だの、村上春樹だの、筒井康隆がそうだ。ふつうの人からすれば、ほんとうのほんとうは、たいしておもしろいわけではない。が、偉そうな人たちが、おもしろい、と言うのであれば、とりあえずおもしろがってみないといけない気になる。下手にけなすと、自分のバカが見えてしまうようで、腰がひける。

 誤解の無いように言っておくが、タレントのニワカ作家も、ノーベル賞級の文壇作家も、言葉で語ることにおいては、前者より後者が高級だとか、後者の方が言葉というもの、文学というものに精通しているのだ、とかいうことはない。最初に述べたように、世界観が異なるのだ。そして、売れ方のしくみが異なるのだ。だいいち、文壇作家、と言っても、ミステリ文壇、とか、ラノベ文壇、とか、さらには、ポルノ文壇とか、その業界では有名、というだけで、世間一般からすれば、べつに人間的に尊敬に値するようなものではない。

 なんにしても、いまの時代に売れるストーリーは、この二つの売れ方に分断されている。そして、この二つの市場は、ほとんど交錯しない。一般的なタレント本を好む人は、狭い文壇本を嫌っており、こちらの方が人数的には多い。一方、文壇本を好む人は、タレント本など本ではない、と思っている。しかし、前者よりは少ないとはいえ、やはりそれぞれの文壇としてその分野の社会的ベストセラーを生み出さないことには、文壇として維持されえない。そして、どちらも、もっともらしい理屈をこね、相手を攻撃する。が、結局の所、売れている本を追っかける、という意味では、どちらも行動パターンは同じだ。