手塚治虫と記号マンガの限界5

 70年代、アイドルが全盛となる。もちろん60年代にも銀幕のスターたちがいたが、彼らは、はにかむ、など、ある意味で、自然な下手さが魅力だった。ところが、アイドルは、後の「ブリッ子」という言葉に象徴されるように、歌はともかく、記号的なかわいさ、まじめさを操作する能力に長けていた。それは、事務所によって徹底的に仕込まれたものであり、まさにアイドルで、本人たちの本性とは無関係だった。

 そして、80年代になると、ストーリー的にアニメの影響を受けた第二世代が出てくる。高橋留美子あだち充は、基本的に絵が描ける。それでいて、絵とキャラクターの内面性がしばしば切り離されている。ここでは、シリアスな、アイドル的なかわいさ、まじめさと、そのかわいさやまじめさを客体化してちゃかすルーズさが同居している。そして、そのちゃかしている方に、キャラクターの本音があり、そのギャップによって、キャラクターに内面性が与えられた。

 かわいさやまじめさを登場人物たちが自省することにおいて、記号としてのかわいさやまじめさが対象化され、それらと距離を置く真の心情が表現される。つまり、かわいさやまじめさも、それを自省していることも、どちらも表面上の記号的な、お決まりの表現なのだが、その組み合わせによって、その自省がノエシス化し、奥行きを作り出す。

 ほんとうはかわいくも、まじめでもなく、ずるくて、ふしだらで、色ボケなのだが、ずるさも、ふしだらさも、色ボケも、記号では表現しない。それどころか、そのずるさやふしだらさ、色ボケを登場人物たちが自覚して、自分で嫌悪している。そして、この自己嫌悪によって、表面的な記号性と、内面的な心情性を二層に剥離させている。

 とくに『めぞん一刻』に至っては、このギャップだけで7年もひっぱった。本音を出さない、出せない、出させない、という三重のしばりを巧妙にセッティングに組み込むことによって、一目ボレの状態からなにも進展しない。目に見えるもの、つまり、実際にマンガに描かれるものは、すべてすれ違いで、うまく行くのは、わずかに妄想の中でだけ。しかし、ほんとうのストーリーは、その7年の内面の熟成の方にあり、マンガに描かれるすれ違いは、まさに記号的に繰り返されるだけの見せかけにすぎない。(本音を出させない仕掛けだけのために存在する一ノ瀬、六本木、四谷は、基本的に純粋な記号存在だったために、オチに至って豹変することになってしまう。)

 記号を繰り返しにしてしまうことによって、逆に内面のストーリーを創っていく、というのは、文芸映画では珍しくない手だが、これをマンガでやってしまった、それに読者を引っ張っていったというのは、驚くべきことだ。

 ところが、この後、高橋やあだちを含め、こういう仕掛けができなくなる。次週を乗り切るので精一杯となり、原作者をつけて、毎度、別の蘊蓄でお茶を濁すようになる。そんな中で、出色だったのは、1990年から始まった、おっそろしく絵が下手な青木雄二の『なにわ金融道』くらいか。