手塚治虫と記号マンガの限界4

 前にも書いたが、マンガがサイレント映画コードだの、トーキー映画コードだのでシリアスなじたばたしている間に、テレビのアニメは、かなりルーズなストーリーを展開することができた。そのきっかけとなったのは、赤塚不二夫だろう。

 『おそ松くん』では、手塚と同じ、サイレント映画コードで、見た目どおりの表現だ。しかし、ここではすでに、六つ子ということで、キャラクターの記号性が、自虐的にギャグとしてちゃかされている。赤塚は、手塚がマンガとして確立した表現方法自体を客観化することによって、その記号の一義性をあえて危うくし、そこにルーズなオチを開く方法を見いだした。つまり、手塚以上にキャラクターを自覚的に記号化することによって、手塚にはできないストーリー表現を切り開いていく。

 『おそ松くん』の後、1967年から連載された『もーれつア太郎』では、主人公の父親という、死んで見えないキャラクターが重要な役回りとなる。キャラクターとしての記号がないのだ。そして、なによりすごいのは、主人公はもちろん、周辺の人物まで、言っていることとやっていることにギャップがある、ということ。このことによって、はちゃめちゃな話なのに、全体が人情味を帯びてくる。 

 ア太郎はアニメ化され、手塚のところでその物語コードを吸収した辻真先らによって書かれたその脚本は、さらに人情話としての色彩を強める。マンガは、見た目どおりだが、アニメは、セリフと動きとを矛盾させることができる。「おまえなんか大嫌いだ」と言いながら、泣いて抱きしめる。強がりを言いながらおびえ、欲にかられながら踏みとどまる。こうして、見た目とは別の内面性をそこに確立させていく。

 続くマンガの『バカボン』はさらに記号解体的に前衛化していくが、アニメの『バカボン』は、ア太郎の人情路線を踏まえ、絵は手塚よりはるかに記号的であるにもかかわらず、手塚にない実のある人物群像が描かれ、人気を得る。