手塚治虫と記号マンガの限界3

 手塚マンガのギャグがすべるのは、こういう理由だ。ギャグだから、意外性がなければならないのに、キャラクターが直情的にしか示しええないために、自分で笑わせていますよ、と説明してしまう。この問題を解決するために、少女マンガなどでは、シリアスなキャラクターがギャグをやるときには、ギャグのキャラクターに変様する。同じキャラクターが、通常のシリアスモードとギャグモードの二通りの絵柄を持っている。

 なんにしても、こんなひどいやり方で、手塚が、手塚だけが大量のストーリーを創れたのは、物語コードのストックがずば抜けて多かったからだ。それは、松任谷由実ボキャブラリの多さに似ている。ボキャブラリが多ければ、その順列組み合わせだけでも、かなりの展開ができる。くわえて、時代や背景のセッティングを変え、古典や時事の風味を加えればかなり増える。

 これが物語コードであることは、手塚プロダクションが文芸部を持ち、その文芸部のメンツが、短時間で、手塚的なストーリーの作り方をマスターしてしまったことでもわかる。手塚が自分で書かなくても、アトムでも、ジャングル大帝でも、きっちり一話完結で脚本を作った。

 ところで、劇画は、手塚の絵柄以上に、こういう手塚的なストーリーに反発した。劇画の本質は、絵ではなく、そのストーリーにある。しかし、そのためには、まずキャラクターそのもの、記号化原理そのものから変える必要があった。すなわち、彼らはサイレント映画的な表現コードを拒否した。この結果、劇画の主人公は、口をへの字に結んで、つねに棒立ちをしている。演技しないのだ。一方、セリフは、説明がどんどん増えていく。絵で描かないで、時代背景からなにから、ぜんぶ、開かない口で説明する。

 無表情で無演技。これは、ニヒル、というより、トーキー映画のコードだ。だいいち、ニヒルというより、やたら口が軽く、口数が多い。忍法秘術から国際機密まで、なんでもごちゃごちゃ説明したがる。手塚もあわててそのマネをするが、ストーリーが追いつかず、支離滅裂になってくる。彼は、若くして売れたために、外的な実体験がなく、こういう外の物語を持ち込む能力に欠けていた。そのうえ、それをできる文芸部の連中ともケンカをして、蹴散らしてしまう。かろうじて見つけた突破口が、彼が学生時代に学んだだけの医者の世界、ブラックジャックだ。