手塚治虫と記号マンガの限界2

 問題は、まさに記号的キャラクターにあった。手塚的な、というより、手塚以前から、マンガにおいてキャラクターは見てわかる記号であり、その内面性は表情として表現された。嬉しければ笑い、哀しければ泣く、というように。この表情は、本来はかなり複雑なのだが、サイレント映画において、当時、国際的に急激に標準化されてきていた。

 日本では、それ以前に能の表現コードがあるのだが、これが一気に国際的なサイレント映画のコードに置き換わった。能コードを継承している歌舞伎から分かれた新劇もまた、日本の芝居でありながら、このサイレント映画コードを受け入れた。まして、宝塚を含む赤毛ものも、当然、これに基づいて演技した。(意外にも、欧米のマンガは、サイレント映画の影響を受けなかった。)

 それは、嬉しければのけぞり、哀しければ腕を目に当てる、というようなものだ。表情以上に半身的なオーバーアクションを特徴とする。そうでなければ、当時の画質のフィルムやスクリーンでは判別ができなかった。顔のアップなんかしたって、当時のフィルムに写るように、ものすごい白黒の厚化粧をしていたから、その表情などわからない。なんにしても、笑う、とか、泣く、とかは、サイレント映画コードにおいて、こういうアクションを意味するようになった。

 ところが、このコードは、大きな問題を伴っていた。内面性が外的な表情アクションに還元されることによって、キャラクターが内面性を失ってしまったのだ。そこに見えているもの以上のものは、そのキャラクターにはありえないのだ。

 このことは、キャラクターそのものにも影響を与えた。サイレント映画でも、新劇芝居でも、マンガでも、登場人物たちがみんな、ガキのように直情的なのだ。激怒するか、爆笑するか、号泣するか。正義の味方はもちろん、悪いやつまで、やたらとわかりやすい。黒澤なんかも、この時代の影響を受けてしまったから、人物がみんなくそまじめで、単純で、マンガ的だ。シリアスでしかありえないストーリー展開は、このサイレント映画的な表現コードの制約による。