ミステリーのトリックとシリアス極右派4

 そして、この当然のミステリーの原理的問題が、横山秀夫の一件で露呈する。すでにミステリー・ファンの間で評価の高かった『半落ち』が2003年の直木賞候補になったとき、その選考委員の北方謙三林真理子がケチをつけて落ちた、というのだ。受刑囚が骨髄ドナーになる、という問題で、法的に問題があるとかないとか。

 だいたい、この二人、ミステリーにも、法律にも詳しくなさそうなのに、なんでこんなこと言い出しちゃったんだろう。でも、この二人、門外漢だけに、ミステリーのタブーとされている本質を突いてしまった。法的に可であったとしても、ミステリーが、もともと、そういう現実の問題に無頓着であること、現実に対してノーチェックであることを、世間にさらしてしまった。しかし、ミステリーとは、そういうものなのだ。だから、ミステリーは、どんなに血みどろの猟奇殺人でも、かろうじて許されている。(ちなみに、大手出版社の新書の事実チェックの裏取りはものすごいぞ。)

 むしろ問題なのは、この小説が、骨髄ドナーというプロットが、自己犠牲の記号としてのみ用い、アルツハイマー病とともに、泣かせどころ、落としどころとして、安易に利用した、ということだ。法的にどうかという以前に、こういう複雑な問題を安易に泣かせネタに使うこと自体、すべての文学として許されない。

 じつはうちの親も、なんていう裁判官の安っぽいプロット、まったくシャレにならん。こいつ、その程度のことで、このネタを使ったのか、というのが、そこに現れてしまっている。死は記号になりうるが、しかし、病気は、そうではない。病気は、長年生きてきた人間がなお生きなければならないものだ。人の生活に、同じ、ということがないように、人の病気に、同じ、などということは、絶対にない。

 死は終わリだが、病気は生きるものだ。だから、白血病やガンだって、それだけで個別のドラマにしなけばならないくらいの複雑さがある。ましてアルツハイマー病や骨髄移植となれば、本人はもとより、親族の中に複雑で固有の事情と軋轢を生じる。類型的にだれにでも納得できる点的な記号としての動機に使える、これで読者を泣かせられる、という発想は、その世界をあまりに知らないからだろう。一時期、犯人の多重人格トリックが、大流行したが、そういうのは、昨今ようやく、統合失調という病気に対する差別として自覚され、自重されるようになった。しかし、それならアルツハイマー病だって同じことだ。

 アルツハイマー病になっちゃったから殺してくれと言われて泣く泣く殺しました、というオチは、障害者だから殺しました、年寄りだから殺しました、部落民だから殺しました、ホームレスだから殺しました、等々と同義じゃないか。それで読者を納得させられる、泣かせられる、と思うこと自体がおかしい。いや、あの本がよく売れたように、実際、たしかに大半の読者はそれで納得してしまうのだ。だが、だからといって、それは作家のモラルとして、絶対にやってはいけないプロットだろう。そんなこともわからない感性で、ミステリーからはみ出してくるな。

 『蟹工船』が文学として生き続けているのは、その狭い船の上に、抽象的な社会問題を、その細部に至るまで緻密かつリアルに具象化したからだ。『レインマン』がアカデミー賞をとったのは、キム・ピークなどの閉じた人々を、その内側から掴み取ってみせたからだ。一方、ミステリーは、もともと現実とは関係がない記号的世界にすぎない。ミステリーだったら、ミステリーらしく、その物語コードの中で大人しくケツまで始末しておれ。もし骨髄ドナーやアルツハイマー病の問題に関わるなら、その現実の、抜き差しならない多種多様な個別事情にまで突っ込んでいくべきだろう。この意味で、あの作品は、ミステリーとして以前に、文学として成り立っていない、どっちづかずのヨタ話だと思う。