ミステリーのトリックとシリアス極右派2

 それだけではない。凡庸な犯人が、すごい努力や偶然ですごいトリックをやりとげた、というのでは、説得力がない。というわけで、犯人も、エキセントリックになっていく。つまり、すごい天才でないと、すごいトリックを考えた、ということの説明がつかないからだ。ホームズがモリアーティ「教授」を宿敵としたのも、こういう理由だ。コロンボなんかも、犯人は頭のいいセレブばっか。

 とはいえ、頭のいい犯人と、頭のいい探偵のやりとりなんて、小説としてはともかく、絵にならない。テレビドラマくらいならいいが、フィチャー(看板)映画としてはものたりない。おりしも、1957年にエド・ゲイン事件が発覚する。こいつ、冷徹で知的な上に、過激でエロい猟奇的変質者だ。まさに映画向き。このたった一人のモデルだけを元に、『サイコ』のノーマン・ベイツから、『コレクター』のフレデリック・クレッグ、『ダーディーハリー』のスコルピオ、『羊たちの沈黙』のバッファロー・ビルまで、大量のエキセントリックなサイコ犯人が出てきた。

 殺し方も、女を誘拐して皮を剥ぐ、というのがエド君以来の定番で、これにも飽きてくると、チェンソーでめった切りとか、いろいろ工夫するが、どれも、すぐに定番化してしまう。意外なのは、もともとエド君がオカルトマニアなのに、ミステリーはオカルトを取り入れるのを嫌ってきた。ネタが尽きると、オカルトっぽい殺し方も入り込んでくるが、基本的にそれはミステリーの本筋ではないことになっている。

 かくして、トリックから、探偵も犯人も殺し方もエキセントリックでルーズになった。が、それがミステリーの物語コードであり、現実はともかく、ミステリー・ファンの間でだけ、許容されている。

 ところが、奇妙なことに、被害者だけはあいからわず極端にシリアスで凡庸で、エキセントリックな探偵や犯人も、その動機や行動も、極端にシリアスで凡庸だ。現実に、サイコ犯なんていたら、わけがわからんやつだろう。その動機や行動も、エキセントリックで、説明なんかつくわけがない。

 実際、ホンモノのエド君が殺していたのは、映画向きの若いきれいなおねえさんなんかじゃなくて、ママみたいなおばさんばっかりだし、そのトラウマの元になった、被害者に相当するエド君のママにしたって、ものすごいエキセントリックな清教徒的狂信者で、死ぬまでエド君を罵倒し続けていた。

 つづく。