ミステリーのトリックとシリアス極右派1

 ミステリーというのは、おうおうにシリアス極右だ。秀逸なトリックとされているものに、たとえば、玄関ドアの郵便受けの穴を利用して、部屋の中の鍵を奪う、というのがあるが、消える魔球なみにバカバカしい。よほど都合のよい条件が揃わないかぎり、できるもんか。が、そんなことを言ったりしたら、連中は激怒する。一縷の可能性だけでもあれば、それは、できる許容範囲なのだ。ミステリーの世界では、その世界の中だけでは、そういうルールになっている。現実など、知ったことではない。

 逆に、たとえ、ほんとうにこんなすごいトリックを使ったとしても、現実の公判で、犯人はこんなすごいことしたんです、なんて言ったって、通用しない。もっと凡庸に、鍵は二本あったが、河に投げ捨ててしまった、という、自白証言だけで押し切ったほうが、まだましだ。結局、ここでも、別の種のシリアスなストーリーが求められているのであり、真相など、大した問題ではない。そこではそこでの物語コードがあり、ミステリーの珍妙なトリックのようなものは、そのコードに抵触する、許容範囲外、ということになる。

 両者を比較するとわかりやすいが、じつはミステリーのトリックの一点だけは、極端にルーズなのだ。ミステリーなど文学ではない、と言われるが、それは当然で、ミステリーのトリック以外は、検察側の絵図並みに、ものすごく凡庸に、いや失礼、ものすごくシリアスに書かれている。いかにも、どこにでもいそうな登場人物に、どこにでもありそうな動機。しかし、ただトリックだけが既存の物語コード外にあるから、そこでニヤっとさせてオチになる。

 ところが、その物語コード外のトリックを読み解く探偵もまた、物語コード外に、半歩、出る必要があり、シャーロック・ホームズの昔から、そんなやつ、おらんだろ、とツッコミたくなるようなエキセントリックな人物像にならざるをえない。しかし、このミステリーの構造的な要請から、その後も、そんなエキセントリックな探偵だらけなものだから、探偵はエキセントリックなものだ、というのが、ミステリーの物語コードになってしまった。

 つづくよ。