シリアス/ルーズ3

 つまるところ、シリアスなストーリーというのは、じつはリアルなのではなく、むしろ極右的にフィクショナルなのだ。実際の現実は、曖昧で、複雑で、多義的であるにもかかわらず、シリアスなストーリーは、それをきれいにぬぐい去ってある。

 そこでは、すべてが単純で唯一的なプロットとして提示される。ちゃぶ台をひっくり返せば、それは怒り以外のなにものでもなく、ギャフンと言えば、文章の句点と同じで、そこでそのシーケンスは終わり、ということだ。表現も、その表現のメタ記号も、コードとして確立されており、そのコードの配列としてストーリーが展開される。

 逆に言うと、ルーズなストーリーは、このコードを逆手に取る。コードからすればこうなるにちがいない、と観客や読者が予測することを逆に利用して、そこにそれ以外の可能性を見つけ出してくる。時限爆弾に赤と青のコードが出ているのを見て、ルーズな主人公は、それをじっとにらんだあと、箱をひっくりかえして、すっと簡単に電池を抜く。

 つまり、ルーズなストーリーは、つねにシリアスなストーリーのパロディとしてのみ成り立ち、この予想外へのずらしにおいて、にやっとさせるがゆえに、笑いとなる。シリアス極右派は、これを掟破りと感じ、許せない、卑怯だ、と思う。それで、消える魔球ですら、むちゃくちゃだろうとなんだろうと、とにかくくそまじめな理屈を考え、登場人物のだれもが、すなおにその理屈を驚きつつも受け入れてみせる。読者も、そんなこたぁないだろ、と鼻で笑ってはいけないのだ。