ロードムービーとファンタジー3

 これらの傾向は、ロードムービーがファンタジーであるときに、さらに強く表れる。というより、ロードムービー自体が、もともとファンタジーとしての色彩を強く帯びている。観客同様、それぞれの閉じた町に暮らしている人々の中に、どこの馬の骨ともわからない風来坊がやってくるのではなく、観客は、風来坊とともに、知らない閉じた町に流されていって、そこに入り込む。そこは異境であり、奇妙な因習に満ちている。つまり、それは自分の現実ではない。

 しかし、それぞれの留は、敵役の派遣やつきまといを含め、主人公たちにとっての試練でもある。それぞれの異境は、主人公たちに難題をふっかけ、その難題を解決しないでその留を立ち去ることは許されない。そんなことをすれば、その難題は、敵役に加わって、次の留までつきまとってくることになる。一方、無事、難題を解決したとしても、次の留へ伏線をひきずることができない以上、主人公たちは得るものがまったくない。

 そして、悲劇は葬式で、喜劇は結婚式で終わるのが定番だが、ロードムービーの最後は、なぜかファンファーレが鳴り響く戴冠式。繰り返すが、主人公たちは、長い道のりを経てきていながら、いくつもの難題を解決していながら、なーんにも成長なんかしていない。最初から最後まで、そういう主人公のまんまだ。なのに、戴冠して、王になる。ないし、王に謁見して爵位を得る。もしくは、本来の高貴な生まれを知るところとなる。

 そう、この最後のパターンがロードムービーの根本だ。もともと高貴な生まれだったのに、あちこちの留ではそれが認められなかっただけのことだったのだ。つまり、この戴冠は、成長して戴冠するのではなく、奪われていた自分の本来の身分を取り戻すことにほかならない。だから、留で学ぶことなどなにもない。そもそも留で受ける試練自体が言われなき不当な扱いなのだ。(水戸黄門のように、自分から好きこのんで、それを受けたがるやつもいるが。)

 なんにしても、とにかくたどり着きさえすれば、公的に地位が認められる、ということだ。逆に言うと、ある場所で公的に地位が認められることによってのみ、その場所に居着くことができるようになり、旅も終わる、ということ。そもそもファンタジーにおいては、『アリス』でも『ピーターパン』でも『オズの魔法使い』でもなんでも、ファンタジーの世界に落ちたこと自体が間違いであり、現実の世界に帰還することで、元の状態に戻る。

 そして、ここではじめて大きなアークが生まれる。現実の身の上は、ファンタジー的な旅というものによっていったん奪われ、数々の試練の後に、それを取り戻したことによって、与えられたものではなく、自分で選んで得たものに変わる。それは、試練を解決したから取り戻せた、というのではない。自分が試練を解決しようとした、ということが重要なのだ。というのも、主人公は、あえて試練を解決せず、永劫回帰的に無意味なファンタジーの世界から戻らないという選択だっててきたはずなのだから。