ハックルベリーのスキャッズ文体2

 革命後、ゲーテをはじめとして、むしろ一時的にロマンとしての崇高調への反動が起きる。これは、上層市民の気概だろう。しかし、それは長く続かず、ユーゴのように、中庸調のト書きの中に口話調のセリフが入る、現代的な小説の原型ができあがってくる。これは、先述のように、ノヴェルが芝居から派生してきたことを反映している。

 マーク・トウェインは、試行錯誤の末、1885年、『ハックルベリー・フィンの冒険』を書いてしまう。事情は、ディドュロの『ラモーの甥』に似ている。彼には、アメリカ南部の偽善的モラリティに我慢がならなかった。南北戦争が終わっても、なにも変わっていないではないか。かといって、それを自分の言葉で批判しても、勝ち目がない。そこで、ハックルベリーという、浮浪児を引っ張り出してきた。ハックは、もともとは、1876年の『トム・ソーヤーの冒険』に出てきた脇役にすぎない。小賢しい中産階級のトムは、しかし、その後の十年の間に、トゥエインの中で客体化され、自身はハックの方に依拠することになる。

 しかし、口話調を地にした小説文体で奇妙なのは、いったいだれに向かって語っているのか、わからない、ということだ。口話調は、誰かに語る言語行為ディスクール)として成り立っている。事実だけを語るのであれば、たとえ相手のある伝達であっても、先述のように中庸調を用いるべきだ。このため、ハックの口話調は、聞き手のない独話の色彩を帯び、彼の孤立感を引き立たせるものとなる。

 この孤立した語りは、帰国した後に語ったことになっているコンラッドの『闇の奥』1902より救いがない。もちろん、物語の中では、ハックは、逃亡奴隷ジムといっしょなのだが、彼を裏切るのか、救うのか、救うと決めたにしても、どうやって救ったらいいのか、ジムと語り合うことなどできない。なのに、筏は、川筋を間違え、より差別のひどい南部へと下って行ってしまう。

 もう収拾がつかない。それで、中産階級のトムがやってきて、なんとかしようとすることになる。それゆえ、ここで、トウェインの文調は崩れ、普通の小説になっていってしまう。しかし、それでも問題は解決がつかず、唐突に、じつはとっくにジムは解放されていた、などという無体な朗報がもたらされる。孤立から対話、そして、神の声へ、こうして、無理やり、オチをつけて、トウェインは、この恐ろしい文体からは逃げ出してしまった。

 これに再チャレンジしたのが、1950年に『麦畑の救いの手』を書いたサリンジャー。それにしても、つかまえて、は、ないだろ。受けとめて、の方がまだましだ。びしょぬれジェニーは、かわいそう。スカートひきずり、麦畑。(十八世紀後半、ペティコートは、長いドレスの下半分のことで、下着ではない。)そんなジェニーでも、麦畑の中では、だれかと出会える、というロバート・バーンズの有名な歌を、だれかが救ってくれる、というように主人公は間違って覚えている。

 ホールデンは、ラモーの甥の末裔であり、彼が標的としているのも、じつは、フォニーなラモーの甥たちだ。ようするに、主人公そのものが、ジェイ・ギャッツビーやホリー・ゴライトリーのようなフォニーの一人なのだが、そのことは読者にはうまく隠されている。

 内容はともかく、トウェインが大失敗したあの口話調小説、いわゆるスキャッズ(スカーズ、ロシア語)というものに、サリンジャーは成功したのだろうか。主人公、君に語っているが、その君というのは、読者だ。だから、これは、ハックルベリーの聞き手のない独話、神の前での孤独な告解とは状況が違う。平和な時代に寄生するラモーの甥の末裔は、当時、あふれかえっていた。世間話は、そのまま受け入れられた。彼らは、ディドゥロのように、それを躊躇する理性は持ち合わせていなかった。