鏡像段階と映像マーケティング

<p style="text-align:left;"> 二〇世紀半ばからやたら注目されたラカンという人は、世間ではフロイトの後継者ということになっている。本人もそう言っていた。疑似科学の典型のような、論理学風のわけのわからない図示を好んだし、自分を売るのが得意なマスコミ学者の一人でもあった。でも、彼の話のほとんどの元ネタは、フロイトではなく、ヘーゲルだ。だが、それは、言わなくてもわかるだろ、というのではなく、むしろ、彼の実態を越えるフランス国内での評価に、途中からでは言い出せなくなって、もがき苦しんでいたようにも思える。

 ある意味、やたらわかりやすい。しかし、本来、現実は、容易にはわからないものだ。わかりやすいのは、ニュースでも、理論でも、それが真実とは関係のない、まったくの虚像だからにほかならない。それこそ、ラカン本人が言っていた象徴界での話にすぎない。そして、その象徴界にうまく乗っければ乗っけるほど、世間に流通しやすくなるが、彼の場合、自分までそれに乗っかって流通してしまったために、回収不能に陥ってしまった。

 彼は、RSI図式を言う。現実界象徴界想像界だ。これからして、存在、概念、理念、というカントからヘーゲルに至るドイツ観念論弁証法にほかならない。これを背景にフロイトのスパイスを混ぜて、発達心理学に変える。子供は、寸断された身体観しか持たないが、鏡で自分を見ることによって、象徴界で自己を確立する、と。これが、鏡像段階。原我が非我との対立によって自我となる、というのは、しかし、もともとフィヒテやシェリンクの話じゃないか。最初から最後まで、ぜんぶ象徴界の下ネタに投影してしまうフロイトとは関係ないぜ。

 かといって、ラカンは、現実社会の文脈を重視するフロイト左派を嫌った。このあたりが、フランスのラカン一派と、アメリカ南部のニュークリティシズムの親近性を感じさせる。彼らは、多くを語りたがるが、基礎教養が足らないので、本物の歴史に言及してはならず、あくまで、自我というテキストのみ、で、完結しなければならない。自分たち相互に鏡像を作って議論をするが、彼らは、自分を映すものが地平のどこにも見えない歴史の深淵をのぞき込むことは絶対にしようとしない。(しかし、我々は、そこからやって来たのだが。)

 なんにしても、彼らの理論に飛びついたのが、メッツやバルトをはじめとして、フランスで映画やテレビを語りたがる連中。そう、映像は、鏡だ。人々は、映画やテレビを見て、そこに自分を発見する、と。連中の似姿をそこに映してやれば、みんな見てくれる。彼らに言わせれば、映像なんか、新しい物語(ランガージュ)の紬ぎ出しではなく、既存の物語、人々の無意識にすでにある象徴体系(ラング)にすぎない。新しい物語なんか、もとより、だれにも作れないのだ。映像の作り手は、すでに世間にある物語を、人に見えるようにするだけなのだ、と。しかし、まあ、よくも語るに落ちた、というか、実際、彼らがやっていた理論って、新しいものではなく、ドイツにすでに百年以上も前にあった古い学説を、フランス語に置き換えただけのようなものだったからねぇ。

 ばかなことに、ハリウッドの大成功にコンプレックスを感じていたヨーロッパ映画は、さっそくこういう理論に則って、ニューシネマとか言って、夢のハリウッドに対抗し、夢のかけらもない人々の鏡像を撮った。さらには、まともな役者も使わず、本物の人々、つまりまったくのドシロウトに演じさせた。演じさせたら、演技じゃないか、と思うのだが、演じている内容にしたって、よくありそうな、つまらない話ばかり。ごくわずかに名作と呼ばれるものもあるが、大半は、どうしようもないモッキュメンタリーみたいなものになってしまった。こんな現実のまんまな映画なんて、わざわざカネ払って見に来ないよ。

 映画がこんなどうしようもないものを作っている間に、テレビの方もまた、やはりこの理論を応用して、徹底的にマーケティングを行った。ただし、テレビの魔法の鏡は、けっこうゆがんでいて、実態なんか映さない。成功も、挫折も、やたら極端にぶれる。つまり、彼らは、スキャンダラスなイエロージャーナリズムを手本とした。それで出来たのが、いわゆる、コースター・ソープ・ドラマ。そして、こういう往復ビンタみたいに極端にぶれる物語を見ているうちに、人々は、自分自身を中庸の中産階級の一人として自認し、世間並みのオーディナリーピープルにすぎないことに幸せを感じるようになってくれる。

 ところが、その後、フコーは、鏡像によって自己同一性を確立する、とか、できる、とかいう理論自体が、権力による生活介入政治だ、と暴露してしまった。そこで鏡像として与えられるものは、まさに権力側が権力側にとって都合良く準備している理想像であり、本来の自分とは関係ない、と。彼が悩み抜いたジェンダーの問題などが、その典型だ。(もっとも、もーほーとか、ドラグクイーンとかだって、なんであれほど、わかりやすくて、個性がないんだろ。みんな似たり寄ったりじゃん。)

 そうでなくても、テレビとか、作っている側なら、これって、よくわかっていたことだけどね。べつに大してはやってもいない野球だとか、ゴルフだとか、親会社の新聞社の都合で、テレビでがんがん流していたら、ほんとにはやっちゃった、とか、くそおもしろくもないタレントを、事務所に押しつけられてメインにしたら、売れちゃった、とか。そもそも、テレビのCM自体がそうで、絶賛好評発売中、とか、話題騒然、とか、三百万部突破、とか、夢みたいなことを言っていると、ほんとうに世間が乗っかってくる。不思議だが、これこそが現実だ。

 つまり、映像は、鏡なのじゃなくて、鏡のふりをした家畜化のための範型。ウェスト80センチ以上はメタボだ、って言い出すと、みんな必死にその数字に合わせようとする。それって、自己再確認なのではなくて、もともと同一性を言うような自己がない、からだ。サルトルは、みんな演じているだけ、そもそも人間は、何者でもないというように呪われている、と言い出す。こういうフコーやサルトルが出てきてしまった後に、いまさらラカンなんか、ごちゃごちゃ言っても、どうしようもないよ。

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