スティロメトリーの流行と衰退

 作者を殺す構造主義は、また、逆に死んだ作者を捜すのにも用いられた。1060年代から、ぎゃあぎゃあとわめきちらすニュークリティシズムを無視して、北部では、ロケットのために開発されたコンピュータの研究利用が模索された。それが、スティロメトリー(文体統計)だ。しかし、この手法そのものは、もっと昔からある。

 すでに中世から、なんと手作業で、聖書については、コンコルダンスが作られてきた。それは、聖書に登場するすべての語彙の索引であり、これは聖書の解釈を飛躍的に豊かなものとした。しかしながら、その一方、聖書の中にも、相当の語彙の偏りがあることも明らかになり、一つの文章ですら、継ぎ接ぎであったり、地層上に書き直しが行われたりしたことが推測されるようになっていた。

 このテキスト・クリティークの手法を、近代文学にも応用しようということで、最初にシェイクスピアがデジタル化された。シェイクスピアについても、聖書と同様、継ぎ接ぎや書き直しが以前から直観されていたが、これを「科学的」に実証しようというわけだ。そうでなくても、英語のシェイクスピアは都合がよかった。フランス語では単語がつながってしまっており、ドイツ語では格変化してしまっており、統計処理なんかできたものではない。

 シェイクスピアの語彙は2万九千。平均文長は四語とちょっと。統計の母集団をうまく切れば、有意の差を引き出せる、というわけで、世界中のシェイクスピア学者が思いつきで作品をぶった切って、それぞれの統計結果を出し、自分の説を「科学的」に証明しようとした。言っっちゃ悪いが、これなら、ろくにルネッサンス期の古英語のニュアンスなんかわかっていない若手学者でも、このバカ騒ぎに参戦することができた。どれだけパソコンが使えるか、ややこしいパターン解析をプログラムできるか、が勝負だった。

 しかし、結果は皮肉だった。シェイクスピアの作品群を分析する以前に、シェイクスピアに先行するマーロウと、シェイクスピアとが同じ結果になってしまったのだ。それで、マーロウとシェイクスピアは同一人物、という「大発見」になった。一方、かのジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』を放り込んでみたやつもいた。そうしたら、今度は、すくなくとも作者が五人いたはずだ、という、またもや「大発見」をもたらしてしまった。それで、ばかばかしくなって、みんな止めてしまった。

 もちろんスタイル(文体)というものはある。しかし、それは、語彙や文長、統辞パターンなどという表層的な部分にあるわけではない。それは、物事の見方や考え方、伝え方であり、もっと言えば、作家の哲学そのものだ。音楽のスタイルに関しては、すでにかなりの部分まで解析が進み、それっぽいスタイルをまねることができるが、言葉については難しい。まして、絵画にいたっては、こんな手法では、まったく刃が立たない。

 しかし、贋作師のように、まさに画家のスタイルをみごとにまねる連中はいる。贋作師のすごいところは、存在する作品ではなく、存在しない作品をでっちあげるところだ。彼らは、その画家の哲学の部分にまで触れる。鑑定士がさまざまな真贋を判断しようとするが、しょせんは筆と絵の具でできているものだから、結果はあまり当てにならない。というのも、鑑定士がやっているのは、結局、いまだにスティロメトリーにすぎないからだ。