メッセージとしてのメディア

 マクルーハンは、レヴィストロースの手法を現代人に対して応用した。その結果、じつに奇妙なことがわかった。それが、「メディアはメッセージである」というテーゼだ。

 構造主義においては、メディアがなんであれ、構造が同一であれば、同一メッセージであるはずだ。たとえば、ある理論が英語で書かれようと、それを日本語に翻訳しようと、同一内容であるはずだ。

 ところが、マクルーハンは、すでにメディアの選択そのものにメッセージ性がある、と言う。たとえば、呼び出して口頭での注意したのと、記録に残る書面で注意したのでは、重みが違う。同様に、声だけのラジオと、顔の見えるテレビとでは、同じ文章を読み上げても、意味が違う、ということになる。

 さらに言えば、同じ小説でも、ハードカバーと文庫本では、まったくメッセージ性が異なるのだ。ハードカバーは、家で、自分の世界にひたりながら読むことが想定されている。一方、文庫本は、持ち歩いて電車の中や喫茶店で、もしくは、家の中で床やベッドに寝転がりながら読むものだ。当然、ひといきに読める文章の長さが違うし、集中の度合いも違う。

 こんな当たり前のことにもかかわらず、構造主義にどっぷり使った学者たちは、このことを無視してきた。むしろ、作家の方が、いちはやくこの問題に気づき、専門の小説雑誌か、雑多な娯楽雑誌か、単行本か、アンソロジーか、等々で、趣向を変えるようになった。意外に鈍感だったのが、出版社の方で、文字の線形的な並びさえ同一であれば、細かな文字の二段組の全集にしてしまってもかまわない、というようなことを平気でやってきた。

 同じ問題は、映画でも言える。巨大ロードショー館のスクリーンと、シネコンでは雰囲気が違う。まして、それをテレビにかければ、観客の見方はまったく違う。だから、せっかくテレビで流すなら自分で再編集させてくれ、と監督が言い出す。まして、映画と、そのノヴェライズとでは、まったく別のものだ。いや、ノヴェライズなんだから、同一のストーリーが構造的に維持されている、というのは、頭でっかちというもの。

 マンガに至っては、ある時代の、ある季節において、週刊で細切れに連載されたもの、と、数ヶ月遅れの、その単行本では、共時性が異なる。これを解説付きで文庫サイズまで縮小する、などというのは、冒涜なのか、よほど作品に無関心なのか。

 もちろん、テレビや連載マンガのリアルタイムの共時性は、絶対的に失われてしまう。というより、失われてしまう、ということこそ、そのメディアの特性であり、そこにこそメッセージ性があったはずだ。

 作者がそのような共時的メディアを前提に作ったのであれば、その時代の共時的な感性を理解した上でなければ理解することはできない。作者を殺して、通時的なテキストそのものとのみ対話する、などというのは、マクルーハンの言うメディアのメッセージ性の意味をまったくわかっていないと言わなければならない。