映像と沈黙の現実

 朝起きて、仕事にいかなければならない。赤信号で道を横断してはいけない。こういう義務や禁止を、広く当為と言う。だが、じつは、この世に、当為そのものは実在していない。すべてその主体自身が自分で自分をしばっているだけだ。

 水道をひねれば水が出るはず。水道なんだから当然だ。だが、当然であることの根拠を、我々は、もはや知らない。水道管がどこをどう通ってここに水が出るのか、知らないのだ。

 バルトやメッツは、映画が記号的だ、と言ったが、それは、そういうイデオロギーで作られている映画を根拠にした話だ。実際の評価の高い映画の中では、もっとも肝心なところで、その対象が記号的な規約を裏切る。銃を撃とうとすると、弾がない。車で逃げようとすると、エンジンがかからない。味方だと思っていると、そいつが裏切る。

 マグリットフーコーは、これはパイプではない、と言う。それに見える、というだけで、それである、という思いに捕らわれ、かってに安心してしまうが、それに見える、ということは、それであることをけっして保証しない。

 そして、映画は、映像を用いることによって、逆に、この日常の構造主義的な規約の薄っぺらさを突き崩すことができる。そこで生き残るのは、規約のイデオロギーを盾に文句を言うクレーマーなどではなく、レヴィストロースの言うブリコラーシュをやってのけるマクレーン警部のような野生の思考だ。

 人間についても同様だろう。映画において、前半は建前でなんとかなっても、中盤には本性が露呈する。肩書きどおりの人物ではなく、その人物としての固有性が観客に放り出される。地位や身分ではなく、そこに映像として見えているだけのその人物を基軸として、物語の後半が再構築されていく。

 映像として見えているだけの人物、というのは、もちろん実在しない。無論、その役者のことではない。前半で見せてきたあれこれのエピソードを担っているだけの人物で、それ以上でも、それ以下でもない。いや、こういう人物なら、こんなこともできるだろう、こんなことはしないだろう、というように、外から勝手な規約的推察を持ち込むことは許されない。所与のエピソードだけで、その生の状況を解決しなければならない。

 それは、石だけで彫刻を作る、絵の具だけで絵を描く、ピアノだけで音楽を奏でるのと同じことだ。別の素材を持ち込んではならない。この意味で、映画の制作者は、その登場人物以上にブリコラーシュに長けていなければならない。それは、いっさいのイデオロギーに頼らず、映画の中ですでに語られた事実だけを、うまく「解釈」して組み合わせ、そこに、解決、すなわち、新しい構造を作り出す仕事だ。そして、それがあればこそ、観客は、映画にカタルシスを感じることができる。