構造主義とイデオロギー

 言語で語れば科学的だ、という、解説の錯覚は、マルクスフロイト、そして構造主義を得て、爆発的に増殖する。

 彼らの手法は、単純だ。解釈ということで、既存の物語を「イデオロギー」にすぎない、と批判し、自作の物語に置き換える。そして、その自作の物語に合わない部分は、現実の方が間違っている、と言って変えさせようとする。科学主義と実践主義がくっついた実践的科学主義は、かくして無謬の真理となる。言うまでもないが、理論と現実が合わないなら、現実ではなく、理論が間違っている、と考えるのが、まともな理性というものなのだが。

 そもそも、自作の物語にしても、たいしてオリジナリティがない。ひとつは、マルクスのように、市場価値と使用価値で地と図をひっくり返しただけ、というもの。もうひとつは、フロイトのように、すべての物語を、下ネタの世界にマッピング(投影)してしまう方法。いずれにしても、この2つの手法は、構造主義というニュートラルっぽい枠組みを得ることで力を得た。しかし、こんな用法は、言うまでもなく、ソシュール自身が考えていた構造主義とは、かなり異なっている。

 しかし、この勢いはとまらない。次には、ラカンとレヴィストロースを飲み込んだ。ラカンは、RSI図式において、象徴界よりも現実界を、また、レヴィストロースもまた、構造の同一性よりも、構造に捕らわれないブリコラージュの野生の思考を問題にした。しかし、そんなことはおかまいなしに、彼らは、これらを構造主義の典型として祭り上げた。さらには、現象学を元とする現象学的社会学とやらまで、現代社会の構造をイデオロギーだと言い出す。

 つまり、構造主義の流行の根底には、それを構造にすぎない、交換観可能なものだ、と主張する僭越なイデオロギー批判のイデオロギーが隠されていた。だが、イデオロギー批判そのものが、結局、別のイデオロギーの足場の上に構築されており、本気で語り始めると、足下が崩れてしまう。それで、こんどは、ポストモダンだとか、脱構築だとか、わけのわからないことを言って、沈みゆく船の上に櫓を組むかのごとく、さらに新しいイデオロギーを作り出そうと、もがいた。

 このバカ騒ぎの半世紀の裏側で、ラカンにしても、レヴィストロースにしても、ボードリヤールにしても、さらには、本物の新カント派や現象学派、ニーチェハイデッガーの流れをくむ実存主義は、もっと重大な問題に気づいていた。それは、物そのものの現実界の暗闇だ。そこでは、いっさいの構造主義的な規約が成り立っていない。カフカの描く官僚制が、右翼的であれ、左翼的であれ、強固な構造主義であるなら、その官僚制の中心にあって、絶対に近づくことのできない城がそれだ。