解釈と解説:批評から論評へ

 シュライアーマッハーと言えば、ヘーゲルと同じ時代、フランス革命の後のナポレオンの時代の神学者だ。なぜ有名かというと、解釈学の祖、ということになっているから。

 通常は、彼は、作者意図主義の代表として、テキスト主義(作者ではなくテキストそのものが読者との対話において語り出す)から攻撃にさらされる。 

 ただし、ここでは注意が必要だ。彼が第一に解釈の対象としたのは、聖書であり、彼の解釈学の動機は、あくまで神学だ。作者を作者以上に理解する、という彼のテーゼもまた、したがって、神学の下に理解されなければならない。すなわち、彼においては、聖書、そして、すべての文章、すべての芸術、すべての物事は、それを作った者の意図以上のもの、つまり、神の意志が働いている、という発想がある。

 この発想は、同時代のヘーゲルにも見られる。ヘーゲルは「理性の狡知」と言い、英雄など、その時代の精神によって踊らされているだけだ、と述べた。

 この問題は、二十世紀前半の社会的現象学や受容美学、読者反応論ともつながる。しかし、こうなると、シュライアーマッハーを作者意図主義として批判したテキスト主義とも、じつは大差ない、ということになってしまう。

 なんにしても、解釈学が、作者以上、ということを言い出したことは、作者よりも解釈者の方が優位である、と宣言したに等しい。なにゆえ優位か、というと、イエスの言葉のごとく、作者は、自分の為していることがわかっていないから、だ。

 ここにおいて、ナポレオンのように出来事を起こした英雄と同様、テキストではなく、テキストを書いた、という行為において、作者が研究対象となる。たしかに、作者はテキストを書いたのだが、彼はそのテキストによってなにを述べたのか自分ではわかっていない、だから、オレが説明してやる、と言うのが、解釈者の言い分だ。

 これは、作品の良し悪しを論じる十八世紀的な批評家とは異なる。批評家は、あくまで作品の是非を論じるが、解釈者は、作者の製作行為を説明する。重要なのは、批評は、推薦や誹謗などの行為だが、解釈は文章だ、というところ。あたかも、昆虫の生態を記録するかのように、作者の製作行為について文章化する。

 ディルタイは、部分の理解が全体の理解に基づくことにおいて解釈学を位置づけたが、解釈者たちは、作者の製作行為を時代潮流の中において文章で説明する。ところが、この解釈そのものが行為となっているために、また別の解釈者が、その解釈行為を解釈する。かくして、五十年代から八十年代にかけて、解釈者たちがたがいに解釈をしあう、という奇妙な状況に陥った。

 彼らの根本的な誤りは、他者を行為に、自分を言語に位置づけることにおいて、対象より主観が優位に立てる、と思っていたことだ。しかし、解説などというのは、結局のところ、ぶらさがりのおまけ、であって、一言でいえば、余計なお世話、ということになる。

 シュライアーマッハーが言った解釈は、対象を客観化した言葉の解説ではない。彼の言う解釈とは、みずから中に立ち入って、それを表すこと、つまり、その作者以上の意図に、自分もともに参画していくことだ。客観的な論評解説などというのは、もとより十九世紀的な疑似科学の残滓にすぎない。