クレショフ効果の別解釈 2文学

 クレショフがごちゃごちゃ言う前から、文学の世界では、すでにモンタージュの効果が大いに注目されていた。それは、きわめてイロニカルに。すなわち、モンタージュこそが、エロキューションを混乱させることができる、ということだ。

 ルネッサンス時代の自由奔放なロマン『ガルガンチュワ』シリーズは、十八世紀後半には『トリストラム・シャンディの生活と意見』へと展開するが、彼らは天才的に、ヴォルター・ザラーテ(言葉のサラダ)と呼ばれる病的な饒舌の見せ物を意識的にコントロールしてみせた。

 ところが、十九世紀末のプルーストストリンドベリ、トラー、ウルフ、ジョイス、ベケットバロウズになると、同じものを技巧的にいくらでも量産できるようになる。意識の流れ、などと言うが、それは、まったくの嘘っぱちで、彼らはすでにその作り方をテクニックとして知っていた。その証拠に、彼らの文章には、理解できるところがどこにもない。理解できるところがどこにもない、というのは、あえてそうしたからだ。

 自然な、というか病的なヴォルター・ザラーテの場合、でたらめに見える言葉の羅列の中に、巨大な意味空間が張り巡らされていて、その部分がまったく不明であるにもかかわらず、その全体において、完全に理解可能だ。躁病の人の話を聞いていれば、その全体において、なにがその人を内側から脅迫しているのかが、わかる。そして、実際、彼は、それを伝えたくて仕方がない。

 一方、人工的な饒舌は、読者の理解を拒絶する、という言語行為として示される。つまり、ミュトスを理解させないようにエロキューションしているのだ。それは、けっして偶然の産物ではない。中がのぞき見えてしまうような隙間は、健全な理性によって注意深くふさがれている。

 そして、その理解を挟む隙をふさぐ方法が、モンタージュのクロスファイア(十字砲火)だ。意味論的統辞法として成り立たないものばかりを、あえて並べ立てる。これは、「デペイズマン(疎外化)」という手法だ。(この背景には、この用語が示すように、当然ながら、当時、爆発的に流行していたマルクス主義の発想がある。)それでも隙ができそうになると、今度は逆に、多義的なニュアンスを帯びた造語で穴をふさぐ。

 この二つを駆使すれば、ああいうモンタージュはいくらでもできる。そして、手術台の上でのミシンとコウモリ傘の美しき出会い、などというロートレアモンの「マンドールのうた」の技法は、続いて、美術のシュールレアリズムに引き継がれた。