プラトン美学の両義性

 美学の教科書の最初は、たいていプラトンだ。古代ギリシアの哲学者。たしかに美について書いている。が、彼の芸術観は、両義的だ。

 彼によれば、そもそも、この世の自然そのものからして、すべてまがいものだ。この世ではないところに、その真実の美しい姿があって、この世で見えるものは、それに似ている場合に、美しい、とされる。たとえば、夕日の美しさにしても、この世では完全な夕日など、あるわけがない。あるのは、まあまあな夕日だ。しかし、そういうまあまあな夕日でも、そこに我々は完全な夕日を思い出す。それで、それを美しいと感じる。

 まして、夕日の絵など、そのまがいもののまがいものにすぎない。しかし、我々は、それを見ても、現実の夕日を思い浮かべ、完全な夕日を思い出すことができる。だから、それを美しいと思う。

 ここには、下降の美と、上昇の美がある。完全な夕日のまがいものである現実の夕日。そのまがいもののまがいものである絵画の夕日。しかし、我々は、その絵画から実の夕日、さらには完全な夕日へ、と、思いを馳せる。

 さて、ここにおいて、芸術家の役割は、いかなるものか。このあたりのところが、プラトンの原文を読んでも、よくわからない。それで、いくつかの勝手な話が出てくる。ひとつは、芸術家は、せめてできるだけ劣化させないように、現実を写し取るのがよろしい、という写実主義。もうひとつは、芸術家もまた、現実の中に完全なものを思い起こして描いているという理想主義。

 とはいえ、このどちらも、どうも自分では絵を描かない連中の、外見から言い分のような気がする。プラトンの根本的な世界観は、洞窟の比喩だ。哲学者だけが、洞窟の外へ出て、真実の本物の影を垣間見てくる、と言う。それなら、プラトンは、芸術家もまた、哲学者であると考えていたのではないだろうか。言葉同様、作品もまた影にすぎない。しかし、それは現実の影ではなく、理想の影であり、それは現実を見て、そこに理想の影を見たのではなく、彼が心の目で捕らえた理想そのものの影を、現実の作品として打ち立てる。それゆえ、ここでは、自然美も芸術美も同等の意義を持つ。

 しかし、では洞窟の外とはどこか、ということになると、近代美学でややこしい問題が生じる。この話は、また今度。