マッキーの両脳創作論

 ロバート・マッキーに言わせれば、いっぱい小説を読んでいるうちに、自分も小説が書ける、などと思うのは、いろいろな家に住んだことがあるから、自分でも家の設計ができる、と思うくらいバカげている。家に住むのと設計するのは、まったく別のことだ。さらに言えば、いっぱい自分で小説を書いたことがあるから、人にその書き方を教えられる、というのも、どうかと思う。

 看護師と医師の専門能力は別のものだし、まして、患者と医師とは立場が正反対だ。看護師や患者が、病気に詳しい、と言っても、それは、病気を治す方法がわかるわけではあるまい。ところが、小説となると、こういう誤解がまかり通っている。

 見た目のサルまねだけでは、ぜったにに家はできない。せいぜい舞台の画き割りのような、薄っぺらなものにしかならない。建物は、その見えないところに梁や柱などが張り巡らされており、設計者は強度や動線、居住者のライフサイクルなどを考えて組み上げていく。こういう内部構造の部分がしっかりしていれば、あとは内装屋が、客の好みに合わせて、好きにやればいい。しかし、内装屋は、しょせん内装屋で、絶対に家を建てることができない。

 マッキーが言う物語の内部構造が、プロットだ。プロットと言うと、小技がコツ、トリックのように思われがちだが、プロットこそが、物語の梁や柱であり、この構造の理論を理解していないと、それこそ話にならない。それは、作曲における楽理、絵画における色彩学や構図論であり、確実に仕事をこなしていくプロなら、当然に知っていなければならない。

 もちろん世の中には、そういうものを学ばずに、うまく出来てしまう人もいるだろう。しかし、それは天才なのではなく、たんなる偶然だ。何十万人もが、でたらめに創作をすれば、その中に偶然にうまく出来てしまうやつがいても不思議ではない。しかし、偶然は、繰り返すことが困難であり、プロとして仕事を依頼するのは危うい。

 それゆえ、マッキーは、創造的な発想と論理的な検証とが両輪となってこそ、創作的な仕事ができる、と言う。創造的なだけでは、企画ばかりで途中破綻する。論理的なだけでは、理屈ばかりで内実空虚だ。

 昨今、日本では、これが作家や脚本家・マンガ家と、編集者との分業で行われることがよくある。というのも、創作者に構造的な検証能力がないからだ。絵や文章はそこそこうまいのだが、話が作れない。言ってみれば内装屋だ。これではモノにならないので、編集者が骨組を作って、それに沿って書かせる。

 ところが、この編集者というのが曲者で、有名大学を出て大手出版社に入ったただけの文学青年くずれごときもまた、大がかりな物語の構造設計など、できるわけがない。ただ発注者という立場を背景に、高圧的に、作り手にあれこれ気まぐれで指示しているだけ。そして、彼らこそまさに、いっぱい作品を読んだことがあるから、自分で物語が作れると勘違いしている悪しき典型だ。だから、小説やマンガは、あまり知られていない文芸映画のプロットの継ぎ接ぎ、盗作のオンパレードとなる。読んでいる連中の程度ならバレない、たとえバレでも、インスパイアだの、オマージュだの言って逃げるつもりだろう。

 しかし、継ぎ接ぎでは、プロットは物語構造として機能しない。物語にはテーマが必要だ。テーマがあれば、マテリアルはなんとでもなる。本来であれば、理屈の向こうにある無意識の深海に潜って、書かなければならないテーマの原石を拾い採ってくる仕事こそ、創作の原点だろう。そして、その原石を磨き上げ、正確にカットしてこそ、宝石としてそれを輝かせることができる。