バルト・ノヴェルとルカーチ・ロマン

 バルトに言わせれば、物語なんか、もともと人々が持っている物語コードを裂辞と外示でおもしろおかしくしたもの、で、結局、たいした話ではない、ということになる。先述のように、孫娘がおばあさんに会いに行った、というよくある話を、オオカミだの、猟師だのの登場で膨らまし、ドイツの森だの、赤ずきんちゃんだので、具体化しただけ、ということになる。

 この理論は、とてもわかりやすい。ソンタグも、バルトのような外的形式のみの批評を買っている。しかし、これは、それこそソンタグの言う、沈黙の芸術的創造力に対する饒舌なだけの空虚な知性の嫉妬じゃないのだろうか。

 たとえば、『ジョーズ』はどうだろう。あれは、きょうも海岸町の警察署長が、みんなの安全を守っています、ってな話なのだろうか。たまに海にサメが出たりするけどね、というのも、その膨らましにすぎないのだろうか。

 だいいち、この話、じつは外示性が弱い。もっともらしい地名がでてくるが、全体がきわめて象徴的だ。広い海といっても、実際は、船に閉じ込められている。つまり密室だ。(その前の『激突』も、長大なハイウェイが舞台だが、それはじつは狂ったトラックからの逃げ場のない密室だ。)つまり、この意味では、これはたしかに一幕ものなのだが、その全体が、しかし、ワグナー並の神話的な雰囲気に包まれている。

 先述のように、ノヴェルは、全体からの切り抜きであり、不可逆性を嫌う。オオカミが猟師に退治されれば、なにもなかったところに戻る。赤ずきんちゃんは、以前同様、以後は安心しておばあさんを訪ねることができる。しかし、『ジョーズ』に出てくるあんな巨大サメなんか、オオカミほどにも、世界に何匹といないだろう。ところが、命がけでサメを倒した警察署長は、はたしてそのまま、なにごともなかったかのように、明日も仕事を続けるだろうか。

 いま、うちのところの学生が、アカデミー賞の受賞作の物語構造を調べているのだが、受賞作は、バルト型のノヴェルより、ルカーチ型のロマンの方が圧倒的に多い。『風とともに去りぬ』にせよ、『プラトーン』にせよ、その恐るべき出来事を経て後、もはや元には戻れないのだ。そもそも、その出来事自体が、日常を膨らませたもの、日常の中に何かが入り込んできただけのことなどではなく、まさにまったく異次元の世界として主人公を飲み込み、振り回し、来た道を断ち切ってしまう。

 つまり、名作と言われるものは、不可逆的なルカーチ・ロマンのスタイルを採っている。どうでもいいような『マディソン郡の橋』のような話ですら、あの橋こそが、ポイント・オブ・ノーリターンを越える象徴となっている。あの橋を渡った以上、男が去っても、元には戻れない。

 詩文のエポスから発展したという意味では、ルカーチ・ロマンの方が詩に近い、と思われがちだが、じつは散文のバルト・ノヴェルの方が詩そのものだ。この問題は、それを原作としてフィーチャー映画にしたときに明確になる。二時間という流れを、バルト・ノヴェルでは処理しきれない。近年では、ノヴェル本としてはあれだけ売れた『ダヴィンチ・コード』が映画ではスカだったことに象徴されている。逆に、ロマン本としてはぱっとしなかった『ゴッドファーザー』が映画で大成功したのは、よく知られるところだろう。これらは、その原作の長さをうまく処理できた、できなかったの違いではなく、映像化されるものの有無によるのだろう。

 一幕芝居から発展したはずのノヴェルの方が、映像化に向かないのは、結局のところ、なにも起きずに終わるからだ。それは、余興としてはいいのだが、いまの観客が物語に期待しているのは、その物語そのものが、現実に食い込んでくるような、もっとデモーニッシュな力なのだろう。