初期ルカーチの小説論4

 欧米語は同語反復を嫌う。同意語で言い換える。ところが、全体像を理解できていないと、なにが同意語なのか、わからなくなる。なにが同意語なのか、理解するには、反意語を理解し、全体像から部分を読むことだ。逐語訳ばかりやっているやつに、ヘーゲルだのルカーチだのが理解できるわけがない。

 そのうえ、ヘーゲルにしても、シュライアーマッハーにしても、ニーチェにしても、そして、このルカーチにしても、キリスト教神学の枠組があってこそ、その主張が理解できる。というのも、彼らは、根本において、キリスト教の根本的な矛盾の物語、すなわち、神とされる者がまったく無力に殺され、そのことによって世界を救った、という奇妙なキリスト神学の謎を解くことに関心の中心があるからだ。

 それはそれとして、具体例で考えよう。ルカーチ自身は、『ドン・キホーテ』をロマンの典型例として挙げているが、昨今、残念ながら、その正続全巻を読んている人は多くあるまい。そこで、映画で言えば、『タクシー・ドライバー』や『ランボー』こそ、ロマンのよい例だろう。

 ランボーが来るまで、カナダ国境にも近い小町は、すべてが町の中だけで完結している、おだやかなユートピアだったのだろう。しかし、そのことは、我々観客もまた、直接に見ることはできない。なぜなら、我々観客もまた、その町からすれば、外の存在だからだ。我々が見ることができるのは、ランボーの体験として見る、閉鎖的ななれあいと激烈な排他性という鏡像によってだ。

 この町の善良な人々は、ランボーをいじめ、山へと追い込んでいく。ところが、ランボーは、そこにヴェトナム戦争を、つまり、ランボーが体験した現実を次々と悪夢のように再現していく。気づいてみれば、町の人々の方が、ランボーの世界の中に取り込まれてしまう。ランボーを無意味とした人々は、そこではまさに無意味で、まったくの無力だ。

 ゴジラが怪獣ではなく、台風として受肉した放射能の恐怖であったように、ランボーもまた、人間ではなく、ヴェトナム戦争の忘却そのものだ。この荒ぶる神は、町を破壊し、観客の心を蹂躙し、忘却しているということを、しっかりと記憶させしめる。そのことによって、そこに自分の意味を打ち立てる。