初期ルカーチの小説論2

 教会の時代を経て、近代は、その哲学とともに、運命という閉じた世界を壊してしまった。ここでは運命という原型が失われた。この崩壊から、芸術が生まれてくる。それは、世界の崩壊という事実を、形式として、それ自身に取り込む。この故郷喪失の表現こそ、「ロマン(流離譚)」にほかならない。

 「エピーク(叙事)」は、「エポス(歌語り)」「ドラマ(悲歌劇)」「ロマン(流離譚)」を含み、「リリーク(抒情)」と対立する。さらに、現代の新種の「ノヴェル(いわゆる小説)」は、伝統的な「エピーク」でも「リリーク」でもなく、技巧的で、形式的な文学の展開のおもしろさを追求するジャンルであり、なんの行いも、なんの魂も表していない。

 「リリーク」では主観的が露呈しているのに対し、「エピーク」は、その主観性を消し去ることによって、その独自の世界観を主観的に打ち出すことができる。とはいえ、「エポス」は地上の、「ドラマ」は人々の世界の運命に関わるものであったのに対し、「ロマン」は世界から捨てられた個人の運命を追う。彼に対し、世界は固く閉じられている。

 「エポス」では、具体的な世界が伴っているのに対し、「ロマン」では、主人公の理想の行方も、主人公の現実の存在も、具体的な世界に根付いてはおらず、抽象的(ヘーゲル弁証法の意味で)である。そのため、それは、主観的な「リリーク」へ転んだり、同じ客観的な「エピーク」でも共同体的な「ドラマ」に戻ったり、さらには、狭い世界の「エイデュル(素朴頌、牧歌)」や、技巧的なだけの「ノヴェル(小説)」などの「娯楽読み物(ウンターハルトウング・レクチューレ)」に堕する危険を秘めている。

 ダンテなどは世界の全体が見えているから、ロマン風のエポス(歌語り)だ。ところが、近代のロマンになると、世界はつねに抽象的で、ただ主人公と世界の距離(違和感)としてしか把握できない。ここでは、その主人公の主観性(客観性とのずれ)は、皮肉(イロニー)として優越的に自己認識される。(これが共同体化すると、風刺(サティア)になるが、それは通俗化であり脆弱化してしまう。)

 このように、ロマンにおいて、人生的不協和(レーベンス・ディスゾナンツ)は、その本質的形式である。このことは、ロマンと、そのカリカチュア(パロディ)としてのノヴェルを分ける。すなわち、ノヴェルは、波瀾万丈、有為転変において外的にロマンに似ているが、内的には空虚であるのに対し、ロマンは、その主観的で内的な倫理性(どこにもない理想を求め続ける情熱)が、その物語の総体性(トータリテート)と均衡する。つまり、物語のどの場面も、彼の理想ではないことにおいて、不安定性として安定している。

つづく