初期ロラン・バルトの物語論

 ロラン・バルトという人は、若いときはクリアなのに、その後、どんどんグズグズになっていく。そのグズグズの、腐りかけの柿のようなのを喜ぶ連中がいるものだから、よけいワケがわからなくなる。

 初期ロラン・バルト物語論の基本は、関数(ファンクション)モデルだ。つまり、人物や物事ではなく、関数が元にあり、そこに変項として物事が代入される。一つの物語は微分され、関数として理解される。(まさにインチキな疑似科学!)

 彼によれば、物語は、ある単純な出来事にすぎない。たとえば、赤ずきんちゃんはおばあさんに会いました、というような。ところが、物語においては、これが膨らまされる、と言う。その膨らませ方は、2つ。ひとつは、ディスタクシー(裂辞)。もうひとつは、デノテイション(外示)だ。(邦訳は、ディストリビューション/インテグレイション、を、分布/組み込み、などと訳しているが、なんのことやら。邦訳でバルトが理解できる人がいたら、驚きだ。まだ、ふつうに、分配/積分、とでも訳した方がましだったのに。)

 赤ずきんちゃんがおばあさんに会いに行く途中で、オオカミがじゃまをするが、結局、オオカミは退治され、赤ずきんちゃんはおばあさんに会う。ここにおいて、オオカミは、話の途中に割り込んできているだけで、じつは結果には影響を与えていない。悪者というのは、悪いから悪者なのではなく、出来事の邪魔をするから悪者なだけ。

 とはいえ、これでは、おとぎ話。いつ、どこで起こった出来事なのか、実在性が乏しい。そこで、デノテーション(外示)が加わる。ドイツ、フランクフルトの北、シュヴァルムシュタットという村、十八世紀末のドイツの暗い森の中、というように。

 ロラン・バルトの理論の特徴は、それまでロシア・フォルマリストたちが、イストワール(物語)とディスコース(語り)の2レベルに分けてきたのに対し、ファンクション(変化)・アクション(行為)・ナレイション(説明)の3レベルを用いたこと。

 ファンクション・レベルは、出来事の層であり、個々のファンクションは、契機と結果がかならず対に分離されている。ときに契機と結果の間に、他の契機が入り、先の結果の後にこの結果が現れることもある。これは、つまり、日本語で言う伏線のことだ。ファンクションは、結果に選択肢のあるカーディナル(枢軸)と、決まった結果しかないカタリューゼ(触媒)がある。たとえば、銃を手にした、という契機は、相手を撃った、という結果も、撃つのをやめた、という結果も導きうるから、カーディナルだ。一方、タバコを深く吸った、という契機は、煙を吐いた、という結果しか導かないので、カタリューゼだ。前者の方が物語の骨子をなすのだが、後者は、それによって時間を表現する、などの、アクション・レベルやなナレイション・レベルへのデノテイションとなる。

 アクション・レベルは、登場人物(ペルソナージュ)の層であり、ここでバルトは、まさに関数的な、グレマスのアクタント・モデルを、そのまま流用する。これは、アクションそのものが、そこでの立場としての座(アクタント)を持ち、これらに登場人物が填ることによって、一つのアクションが成り立つ。すなわち、行為の主体/客体、情報の送り手/受け手、意志の担い手/抗い手だ。たとえば、撃った/撃たれた、教えた/教わった、攻めた/守った、のように。これらの一方だけでは、それは、そのアクションにならない。そして、これらのアクションは、ファンクションの契機ないし結果となる。

 ナレイション・レベルは、物語の語り手から物語の聞き手へのテキストの引き渡し。バルトは、アクタント・モデルを踏まえ、聞き手があってこそ語り/聞き=物語が成り立つ、とし、そもそも語り手は、自分の見聞をデノテイションとして物語に織り込んでいるものの、根本は、もともと聞き手と共有されている物語コード(文法体系)を分析(ディスタクシー)しているにすぎない、とまで言う。たとえば、赤ずきんちゃんの話も、もともと、孫娘がおばあさんに会いに行く、というありふれた語をおもしろおかしく膨らませたヴァリエイション、というわけだ。それゆえ、問題なのは、個々の物語ではなく、社会的に潜在する物語コードの方であり、彼はここに「作者の死」を言う。これは、ユンクやメッツにも見られる考え方で、アンドレ・バザンらの作者主義と対立する。

 表には出てきていないが、このバルトの理論の背景には、ロシア・フォルマリスムよりも、ウィットゲンシュタインやウリクトの論理実証主義、変化論理学の影響があり、それを聞きかじりで中途半端に取り込んだ結果、こうなったのだろう。また、このころ、社会心理学として、実践的なプロパガンダ理論の研究が進んだ。それは、ヒットラーヒムラーを嚆矢とするものであり、大衆が知っているものを針小棒大に見せよ、彼らはそれを、それのみを喜ぶ、というセオリーだ。戦後の政治はもちろん、商品CM、さらには通俗小説や大衆映画まで、このバルト的な物語観に則って創られてきた。

 この理論は間違ってはいないが、しかし、浅はかだ。実際、こういう物語が「通俗的」で「大衆的」とされ、たしかに外れないものの、しかし、ひとつも大ヒットもしていない。真の創作は、物語コードを打ち破って、生の現実を突きつけるところにある。それゆえ、バルト自身も、この物語コードという素性の怪しげなものを打ち破るべく、ラカンフーコーへと接近していく。が、これらの話は、またこんどに。