物語論の二つの系譜

 物語論(ナラトロジー)には、大きく二つの流れがある。ところが、困ったことに、互いに不勉強で、これら二つの流れは、ほとんど交流がない。

 ひとつは、ロシア・フォルマリズムに始まり、フランスではやったもので、プロップ、グレマス、ジュネットロラン・バルト、リクール、クリスティヴァなどが属している。ソシュール構造主義の影響を強く受けており、形式主義的に、物語の構造を分析しようとする。物語の意味は作家の意図にあるとする作家主義を否定し、物語との対話を強調する。この意味で、ドイツのガダマーなども、立場的に近い。

 しかし、こいつら、問題も多い。やたらわけのわからない術語を振り回すが、それはたんなる衒学にすぎない。1994年のソーカル事件を待つまでもなく、その創生期からして、安っぽい疑似科学趣味もいいところ。日本でも、「言説」などというチンケな術語を振り回すのは、たいてい、この流れに属している。緊密な構成の小説や映画を、連中の術語でふやかして、論文だ、解釈だ、などと言う。そもそも、日本の訳語がひどい。おそらくフランス・ナラトロジーの内実を知らないまま、直訳的に訳語を決めてしまい、全体のつじつまが合わなくなってしまったせいだろう。

 もうひとつの流れは、小説や映画の脚本を書く人のための実践的方法論で、商業主義的なアメリカが中心だ。いま私が翻訳に取り組んでいるロバート・マッキーをはじめとして、シド・フィールド、トロッター、リンダ・シガー、ジョン・ガードナー、アン・ラモット、レニ・ブラウニなどがいる。大学の創作科でかならず教えられるヴォーグラーやボネットのように、彼らは、想像力を引き出し、ヒット作品を創るために、往々にフロイトやユンクの深層心理学からヒントを得ようとする。

 もっとも、彼らは彼らで、現場出身者が多く、教養課程で教えられるプラトンのほかは、アメリカでは身近なフロイトやユンク以上の、哲学的な理論構成をすることができない。やたらつまらない実例の引用と分析ばかりで、大著のわりに内容がない。まあ、ワナビを集めたセミナーならいいだろうが、本としてはどうかと思う。 

 近年は、私だけでなく、両方の系譜にに目配りをしている研究者も少なくない。チャットマンなどは、バランスがいい。日本でも、あちこちに創作学科ができてきたが、残念ながら、その中身は、語学教員くずれか、貧乏作家あがりかで、およそ美学や物語論の専門研究者とは言い難い。もっときちんとした大学としての専門的かつ実践的な物語論の研究が成り立つといいのだが。