娯楽小説における人称

 私だって、たまには小説も読む。けっこうディープな娯楽ものだ。ところが、とにかく語り方が気になってしかたない。せっかくおもしろい話なのに、なんでこんなに語り方が下手なのだろう、と思う。

 ダメな小説の理由は明解だ。多くの場合、人称の切り換えに失敗している。いまどき一人称だけで物語を貫き通すのは、実験小説くらいのものだろう。だいいち、セリフが出てくれば、それは、地の文に織り込むのでもない限り、その発言者の視点に切り換えざるをえない。

 このことは、たんに人の呼称が切り替わるということではない。人が変われば知っていることも変わり、同じことでも見方が変わる。ところが、下手な語り方だと、つねにみんな同じことを知っていて、みんな同じ見方をしている。ようするに、書き手が声色を代えているだけで、人称が切り替わっていない。

 しかし、その人がそのことを知っているのはおかしい、ということは、書き手も気づくのだろう。となると、そこで、突然、話が過去に遡って、じつは、となる。ところが、ここでさらにおかしくなる。ここで、過去に遡ったところに出てくる人物たちは、じつは、と語っている人物の思いこみであるはずなのに、それぞれ地の文のようになってしまう。これは、ようするに、伏線を張り損ねて、あとで書き足したというだけで、回想にもなんにもなっていない、たんなる書き手自身による事後説明だ。

 同一の読者に対し、異なる視点を同時に提供し続けるためには、いま、この行がだれの視点(に共感したもの)なのか、書き手が自覚して書き分ける必要がある。というより、読者を、そのときどきで、別の視点に憑依させるように押しやる必要がある。映画なら、カメラに背中しか見えない人物が、そのカメラの視点だ。それに相当するレトリックを、文章の行の中に織り込む。

 もちろん、その数行後で、別の人が発言し始めれば、セリフ以上に、読者をその視点に切り換えさせてやる必要がある。このことを自覚的に行えば、それがおのずから段落になる。ところが、とくに日本語で、昔ながらに原稿用紙で書いているヤツは、たいていダメだ。行替えだらけで、どこまでが視点の段落なのだか、さっぱりわからない。というか、そのことが自覚されていない。だから、やたら行替えをするのだろう。書いている本人はいいだろうが、読んでいる方は、思考が細切れに寸断され、流れがさっぱりわからない。

 たとえば、こういうこと。

 A 「ずいぶん待ったぜ」 そう言って男はイスから立ち上がり、銃を女に向けた。

 B 「ずいぶん待ったぜ」 そう言って男はイスから立ち上がった。そして、彼は女に銃を向けた。


 Aが正しい。読者は男のセリフを聞いて、イスから立ち上がる男に目を向け、その後、この男の目とともに、その銃が狙う女を見ることになる。これが、この男の視点に沿った流れだ。ところが、Bでは、後半の文の視点が泳いでしまっている。読者はまた男の方、その男の手元の方をズームアップで見せられてしまい、呆然としてしまう。いったい、いま、自分はだれの視点に依拠しているのだろう、と。

 切り替えと連続、このリズムがないと、物語など読めたものではない。こういうのは、文学的センス以前の話だ。基本的な物語の語り方なんかこそ、小学校できちんと教えるべきなのではないだろうか。