『トロピック・サンダー』の笑いの毒

 この映画、ここ数年でめずらしく、世界で当たった。『メリーに首ったけ』以来、ベン・スティラーのコメディーでの評価は高い。お笑いのビッグ・スター、ジャック・ブラック。おまけに、コーエン兄弟もかんで、ロバート・ダウニーJrだの、トム・クルーズまで、オバカをやっている。

 基本的な物語は、かつての名作『サボテン・ブラザース』と同じ。映画俳優が現実の戦地に放り込まれているのに、なかなか気づかず、あいかわらずバカをやっている、というもの。シリアスな状況であるほど、バカが引き立つ、というしかけだ。

 しかし、ぜんぜん笑えない、という人も多い。そりゃそうだ。コーエン兄弟の映画なんだから、簡単に笑えるわけがない。それでも当たったのには理由がある。ただのオバカ映画で、ロバート・ダウニーJrやトム・クルーズが、あそこまでオバカをやるものか。

 この映画のすごいのは、まさに、まったく中身がない、というところ。全部が寄せ集め。まさに、キーファー博士の言うところのポスト・モダニズム的な作り。パロディなのでなく、見せ場も、セリフも、パクリだらけ。というか、パクリしかない。しかし、それこそが、この映画のテーマだからだ。

 さまざまなヴェトナム戦争の映画が引用されているが、とくにベースになっているのは、『地獄の黙示録』だ。そして、骨太そうに見えるヴェトナム戦争映画の闇の奥にあるのは、アメリカの象徴としてのハリウッド。そう、ハリウッドこそが、ヴェトナムの奥にあるものだ。その奥地に突っ込んでいったら、簡単に向こう側に突き抜けてしまう。じつに薄っぺらな現実感。

 あの生首やパンダを見てみろ。あれは、あえて作り物っぽくしている。この映画の技術力をすれば、生きているかのようなものは、特殊メイクでも、CGでも簡単に作れる。なのに、やらない。冒頭の戦闘場面のリアルな作り込みと比較すれば、その差は歴然だ。つまり、この映画では、あえて、映画の物語として中で作り物とされているものの方がリアルで、物語として本物とされているものの方が作り物っぽくなっている。それは、それはニセモノを本物と思い、ホンモノを作り物っぽくしか見えない観客の現実感を代弁しているから。

 役者たちにしても、映画の中で、映画の役作りの話ばかりしている。しかし、おまえは誰だ、と、問われると、その役以上の実体が無い。それは、まさに、アメリカという国のアイデンティティに関わる。黒人ですら、黒人のフリをしているだけ。かつて差別を受けた、という役を演じているだけ。色は黒くても、中身はやはり無い。まして、その他になると、役作りをしている役者としてのアイデンティティも怪しくなる。それは、国際社会におけるアメリカ、そしてまた、アメリカ社会におけるアメリカ人一般、さらには、日本を含め、世界のアメリカ風の国際人にも共通するいかがわしさだ。

 英語をしゃべり、トーストやシリアルを食べ、アメリカ映画で笑えると思っている人々。しかし、それはすべて演じているだけの生活。かといって、いまさらスパニッシュや、日本人としての歴史的なアイデンティティも持ち合わせていない。そのとき、そのとき、そのフリをしている間に、自分がだれだかわからなくなってしまった連中。この映画でまさに笑えないのは、そのアイデンティティの隙間を明らかにしてしまうからだ。

 どっぷり生粋のハリウッド人なら、ナポレオン・ダイナマイトダンスを踊るプロデューサーのように、だれだかわからない相手に怒鳴り散らし、どんな小ネタにも大笑いして、たった一人で朝まで踊れるだろう。しかし、彼に距離を感じるなら、あなたは彼ではない。それなら、誰なんだ? いつも映画ファンのフリをしていて、知ったかぶりで映画館に入ってしまった、どこの誰でもない人。

 強いアメリカのフリ。そのアメリカをよく知っているフリ。厳しい現代社会の現実に放り込まれていながら、その薄っぺらな強がり、知ったかぶりの演技を続け、それで貫き通そうとするバカさ加減。それは、彼らの話ではなく、この映画を見ている人のことだ。

 しかし、この映画は、このブラックな笑いの先に、君がだれであれ、君は、いまここにともにいる友だちだ、という新しい中身のアイデンティティを見つける。それこそが、断片化され、表面は引用だらけになってしまったポスト・モダニズムにおける新しいアイデンティティだろう。そして、それが、移民の、その何世代も後の、寄せ集めの国、アメリカのアイデンティティだろう。

 こういう映画を見て、笑えない、と言っている人こそ、この映画の笑いの的だ。笑う、ということは、直観的なものだから、難しい顔をして考え込むより、じつは難しい。その直観が働かない向う側との距離にこそ、重い、深い笑いがある。