カエルの王様

 ドイツでやたら見かけるのが、黄金の王冠を被った緑のカエル。これ、だれでも知っているカエルの王様だ。評判の洗剤の商標にもなっているから、日本でもよく知られていることだろう。(ただし、洗剤のマークだけは王冠がない。そのメーカーであるエルダル・グループの他の製品(靴磨きなど)には、本来、王冠が付いている。このエルダル・グループの本社がマインツにある。ここには工場だけでなく、店頭実演のための洗剤の使い方を学ぶ大きな研修センターがある。)

 それにしても、カエルの王様は妙な話だ。世界の童話の中でも、こんな出来の悪い話もあるまい。しかし、それだけに謎めいていて多くの人々を魅了する。それは、こんな話。

 王女が泉に金の鞠を落とした。すると、カエルが出てきて、友達になってくれるなら鞠を拾ってあげると言う。王女様が承知したので、カエルは鞠を拾ってきたが、王女は約束を破って、鞠だけ持って、さっさと帰ってしまった。

 翌日、城にカエルがやってくる。王様も話を聞いて、王女に約束を守るべきだと言う。しかし、このカエルが食事のテ-ブルはもちろん、ベッドの中まで入り込んでくるものだから、この王女は怒ってこのカエルを壁に投げつけて叩き殺してしまう。

 すると、あら不思議。魔法が解けて、カエルが王子になって、王女と結婚しました。めでたし、めでたし。

 って、めでたいのか? どう考えても、こんな性悪な王女と結婚したカエル王子は不幸じゃないだろうか。だいいち、泉のカエルならともかく、もともとどこかの国の王子なのだから、なにもこんなひどい王女と結婚しなくても、自分の国に帰ればいいだろうし、もっと別の国の王女とも結婚できるのではないか。

 この話、さらに妙で、じつは、この後、いきなりハインリッヒという王子の家来が馬車でやってくる。この人、王子がカエルにされてしまったことを悲しんで、胸がはりさけそうだったので、3つの鉄のタガをはめていた。しかし、王子が人間に戻った喜びで、そのタガがはじけ飛びました。めでたし、めでたし。

 

 どうみても、蛇足だ。というより、物語分析からすれば、前半と後半で、もともと別の話だったのではないか、と思われる。つまり、王女とカエルの話と、カエル王子とハインリッヒの話。同じカエルというところで、2つがくっついてしまったのではないだろうか。

 知ってのとおり、近年の研究によれば、グリム童話というのは、その民俗学的な採話の経緯からして、まったくの捏造だ。ドイツの古い童話などではなく、その多くの元ネタが十八世紀のフランス宮廷での子女教育用に作られた新作寓話。そのフランス語の教育寓話をオランダ系ドイツ人が聞き伝えとウロ覚えで語るものだから、ぐちゃぐちゃなオリジナルになり、あたかも宮廷寓話より古いかのように錯覚された。

 このカエルの王様も、壁に投げつけられて叩き殺される前半までは、ラ・フォンテーヌの「ウシになろうとしたカエル」などと同様、身の程を弁えよ、という寓話だろう。後半の、カエルにされた王子と家来のハインリッヒの話は、捕虜にされていた王子と拘束具をつけられていた家来の、ドイツのどこかの歴史的な実話っぽい。

 編集者や審査員は、作品にケチをつけるとき、たいていツジツマのことを問題にするが、それはたいてい自分の方が賢いということをひけらかしたいがための自己満足であって、じつは、作品の良し悪し、売れる売れないとはまったく関係がない。

 というのも、歴史的に言えば、ツジツマの合わない話はいくらでもあるものだから。それどころか、オペラや歌舞伎なんか、まともにツジツマの合っている話の方がめっちゃ少ない。だいたい、メロドラマ、という概念自体が、メロディで情感に訴えるツジツマの無いドラマのことだ。そして、不思議なことに、きちんとツジツマが合って、こじんまりとまとまっている作品などより、どうかんがえても破綻している物語の方に人は魅了される。演劇でも、映画でも、古典的文芸作とか、カルト的人気作とかいうのは、たいていそういうものだ。

 とはいえ、破綻していればいい、というわけではなく、名作、傑作と呼ばれるものは、途中でざっくりと、救いがたい断面を持っている。それでいて、その全体を見返さないかぎり、途中ではだれもその断面に気づかない。この奇妙な腰折れの断面をつないでいるのは、我々の側にある強固な先入観だ。たとえば、カエルの王様で言えば、王女様と結婚=幸せ、というところで、断面がかき消されている。ちょっと待てよ、その王女様って、という風に立ち止まって、もう一度、話をさかのぼって振り返らない限り、この断面には気づかない仕掛けになっている。

 シェイクスピアでも、鶴屋南北でも、こういう無茶なつなぎあわせを、するっとやってみせる。昨今なら、有名大学を出ただけの小賢しい編集者に、前読み段階で投げ捨てられる典型ではあろうが。