形見分けの万年筆

 セーラーのクロスポイントをもらった。たしかに良いペンだ。欧字の回転的な書き方とはまったく異なる、漢字の緩急、止め跳ね戻り流れにしっかりとついてきて、インクかすれやインクたまりを起こすことがない。

 それにしても、日本の万年筆は、他の技術職人同様、いまや病的だ。長原宣義氏が名工であることは論を待たない。が、その周囲の扱いはまったく異常としか言いようがない。だまって工場でペン先だけで勝負してこそ職人であろうに、いまやその息子まで表にしゃしゃり出てきた。いくら文具が売れない時代だとはいえ、恥というものを知らないのだろうか。

 1978年の梅田晴夫デザインの「ザ・万年筆」プラチナ#3776あたりからおかしくなった。能書きたれの級友が飛びついて買ったので良く覚えているが、あの極太軸はヘビーライターのもので、高校生ごときが持っていても意味がないということはすぐにわかった。とはいえ、あれ自体はまだしっかりとした実用品だった。ところが、昨今のプラチナPP700000に至っては、軸までプラチナ無垢削りだしで税抜70万円。バカとしか言いようがない。

 これまでロットリング・コアを使ってきた。ドイツの子供のためのお習字用の安物万年筆だ。しかし、ロットリング社だけあって、そこそこしっかりしている。ロットリングの特徴の小さなWカートリッジ・インクは、すぐになくなるのと、すぐに固まるのが難点だが。しかし、それで充分だ。ロットリング社のものは、堅めだが、亀甲筆記体っぽい止め戻りに強く、それでいてインクたまりしにくいのだ。また、ペリカン社のペリカーノ・ジュニアも、安っぽいカラフルなプラスチック軸にステンレスのペン先で、わずか数オイロだが、やはりあなどれない書き味がある。インクの色を変えて、何本か持っていても楽しい。

 おそらく江戸時代の刀剣マニアというのもそうだったのだろうが、昨今の万年筆マニアというのはほんとうに物書きなのだろうか、と疑問に思う。物書きなら、ペンなど次々と遣い潰してきているから、自分の手で自分に合ったペンくらい見つけられる。こうなるとプランドも価格も関係ない。そもそも人によって筆圧も違えば、縦書きや横書き、使い方、漢字やかなの遣い癖が異なるのだから、いくら有名なブランド品でも合わないとなったら絶対に合わないはずだ。たとえば、私は絶対に3776系のものは使わない。あれはインチキ略字だらけの口語売文を書き散らす人のためのもので、学者として細かな正字を一字、一字、書いていくのには、まったく向かない。また、ビジネスマンが、どばどばとインクが出る和紙用のエンペラー系を持っていたら変だろう。

 人に特定のペンを勧める気もないし、ましてペンを自慢する気などまったくない。ペンはしょせん道具で、そんなことにはなんの意味がない。知っての通り、万年筆は、その名と違って消耗品だ。もちろん修理することはできるが、ペン先がダメになる以上、同じ書き味には二度と戻らない。せいぜい別のモノに生まれ変わるだけ。だいいち、使っている間にも、ペンの方はもちろん、手の方もそのペンになじんでいくから、文字の風合いは、どんどん変わっていく。

 万年筆についてごちゃごちゃと語る暇があったら、そのペンの先で語るべきだろう。大切に取っておくのではなく、どんどんペン先をすりへらして、人に思いを伝えるべきだろう。形見としていただいた万年筆は、まだ相当に寿命がある。伝え残した思いがまだそこにある。だから、ただ無闇に文字を書き散らすのではなく、誠実な言葉を選んで書きたい。