聖ヨハネの首

 ネットでヨタねたを拾ってテレビや雑誌で商売ににしている連中がちかごろ目立つが、なんで自分で調べて考える能力もないのに、そういう仕事をしたがるのだろうと思う。パリ大学に留学したとか自称している文庫屋の桐X操なんか、澁澤龍彦のまんまのパクりがあったりして、あれでよく絶版にもならないものだと感心している。(「だが」が「しかし」に書き直されていたりして、子供のいたずら並みだ。)もう少し手の込んだのになると、洋書からのネタのパクリというのがあって、渋種あたりはすれすれの文章もないではない。(一方、荒俣は、それこそ元翻訳家だが、そういうのを見かけない。)

 しかし、驚いたことに、どこの大学でも、学生たちに言わせると、どこかの本やネットから引き写しをしないで、どうやってレポートを書いたらいいんですか、と、逆に聞いてくる。彼らの考えからすれば、すべての本は、なにかの引き写しでできている。そうでなければ、新しい文章なんか生まれるわけがない、というわけだ。この考えは、日本の学者の世界でも珍しくない。日本の学者に新しいアイディアなんか創れるわけがない、きっと洋書のパクリだろう、という発想。実際、上述のように、ちょっと洋書も知っていると、けっこう有名な研究者や文筆家でも、ああ、盗ったな、と思うものを見かけることは珍しくない。しかし、そういうのは、同業のプロ仲間にはわかるもので、恥と思う気持ちがないのなら、研究者や文筆家など辞めてしまった方がいい。

 腹立たしいのは、私までその一種と思われること。そりゃ洋書も読むし、文章の書き方として、学者だから三人称主語で書く。それをシロウトのバカが読むと、ああ、これって洋書のどこかに書いてあるのを寄せ集めたのだろう、と思うらしい。黄色いサングラスを掛けていると、世界が黄色く見えるように、自分がバカだと、人までバカに見えるものだ。そこまで言うなら、元ネタを探して指摘してから言えよ、と思う。

 研究者の世界まで、とにかく学問の基礎方法の教育が欠けている。とくに研究者でもない出版現場をリタイアしたシロウトを大学が採るようになってから、ひどくなった。ようするに、連中の方法は、どこかにある原稿の編集なのだ。あちこちから文章を引き写してきて、そのまとめを論文と称している。もちろんシロウトではないから、パクったりせず、むしろ仰々しいスコラ的な出典注を大量に羅列して権威付けするが、オリジナリティがなければ研究者として意味がない。

 編集と研究とは、決定的に違う。編集は足し算、ないし、引き算だ。寄せ集めか、要約でしかない。一方、研究は、複数の資料の掛け算や割り算で、どの資料にもなかった真実を割り出す。たとえば、2008年のヨーロッパは猛暑だった、という気象資料と、2008年のワインは豊作だった、という農業資料から、2008年は猛暑によりワインは豊作だったのではないか、とひらめく。ここから、猛暑はワインを豊作にする、という仮説を立て、過去や別の地域の気象資料や農業資料を調べ、これが単なる仮説以上の真実を含んでいることを発見する。この真実は、どの気象資料にも農業資料にもこれまで書かれていなかったことだ。

 だから、出典の使い方を見ると、プロの研究者かどうか、すぐにわかる。資料が生で使われているのなら、それはニセ研究者。資料に対してつねにクロスやインテグレーションなどの研究手法が使われていればほんもの。阿部謹也の『ハーメルンの笛吹き男』など、やはり出色だ。

 で、話は、聖ヨハネの首。ハーメルン事件は、聖ヨハネの日、つまり、クリスマスに対向する夏至祭に起こった。阿部氏はハーメルンの街と当時の十字軍を中心にクロスで調べているが、この事件を理解するには、膨大なヨーロッパの夏至祭の習慣についても当たるべきだろう。というのも、この日は、シルヴェスター(大晦日)とファストナハト(カーニヴァル)、ヴァルプルギスの夜(4月30日深夜)と並んで、東洋の土用の同様、暦の隙間とされているからだ。悪魔崇拝、というより、これらの日々は、合わせ鏡の向こうのように、春でも夏でも秋でも冬でもない日で、ここにはキリスト教的な社会秩序が成り立たない。

 ところで、ローマは、聖パウロの処刑地として、権威を持っているが、しかし、当時の状況からすれば、五司教座の一つにすぎなかった。一方、マインツは奇妙だ。ここは「聖座」と称されている。つまり、名称だけからすれば、ローマと同格で、こんな大司教座は、ヨーロッパでも他にない。歴史と規模からすれば、ケルンの方が古く大きい。大ヤコブを祭るサンティアーゴですら、こんな名称は持っていない。たんに交通の立地がよかった、とか、アルプス以北のローマの出先機関、とかいうだけで、こんなに偉そうにできた、とは思えない。

 このために、マインツには、いろいろな古いウワサがある。ドームの至宝だ。ドームの近くには、巨大な聖堂騎士団館と救院騎士団館がへばりついている。二大組織が、この街でなにを守っていたのか。なぜライン式と呼ばれる重交差式の逆向き祭壇が生まれたのか。その逆向き(西向き)祭壇の大塔の下になにがあるのか。しかし、この大聖堂は、ケルンなどと違って、昔はもちろん、現代の観光資源開発においても、公開されていない。そしてまた、マインツは、ライン河の水運の街でありながら、船ではなく、二つ車輪を紋章にしている。初期の大司教の車輪職人としての出自を表す、とも言われるが、しかし、車輪は中世ではむしろ業罰刑の印だ。まして二つ車輪となれば、車裂き(車輪の上に張り付け、その手足を別の車輪で轢く)というかなり神がかった処刑方法を連想させずにはおかない。また、その二つの車輪は、大聖堂の特殊な東西二塔とも呼応している。

 ドーム建設以前の古地図によれば、じつは、あの塔の場所には、4世紀、ゲルマン時代のローマ・キリスト教による洗礼所があった。つまり、植民市としてのケルンやアウグスタ(トリアー)と前後して、ここに、ケスリッヒの丘からの聖なる湧き水による洗礼の聖所として作られた。この意味で、聖ボニファティウスが開市し、街ができる前から、ここはゲルマン教化のための聖別された中心拠点だった。そして、その洗礼所の前に教会が作られ、ちょうど千年前、1009年、洗礼所の四隅をまたぐ形で、その上に祭壇ができ、教会も西へと延長され、ついにはつながってしまった。つまり、もともとは教会による洗礼所への祝福だったのだが、両者がつながってしまったため、教会のミサが西向きになってしまったのだ。そして、その祭壇の上に塔が建てられ、もともとの教会と洗礼所祭壇の塔とで、いわゆるライン式重交差伽藍ができあがる。

 しかし、もともとのローマの洗礼所は地下へ。そこになにがあったかは、いまとなってはまったくわからない。しかし、ウワサでは、そこに、あの洗礼者聖ヨハネの首があり、ギュスタフ・モローの絵のごとく、まさに宙に浮いて輝いていたいう。先駆者聖ヨハネとなれば、夢でしかイエスに会ったことがない聖パウロの名を掲げるローマも一目置かざるをえなかっただろう。

 ケルンで地下鉄工事による崩壊事故があったが、マインツには地下鉄なんか絶対に通せない。というのも、マインツの地下は、すでにいまでも穴だらけ、トンネルだらけだからだ。どこがどうなっているのか、だれにもわからない。そもそも、なんでこれほど掘りまくったのか、も不明だ。もちろん、軍事要塞や地下倉庫という意味もあっただろうが、これほど網の目のように掘ったとなると、なにか財宝を探していた、のかもしれない。

 同じものを見ても、聞いても、読んでも、シロウトとプロではそこに見えるものが違う。見えるものを見ているのではなく、そこに見えているものを支えている膨大な歴史や文化を知っているからだ。そのひらめきの先は、シロウトにもわかるように、実際に掘ってたしかめてみせることだが、学問でなければ、ウワサをウワサとして楽しむ余裕というのも、いいものだ。わからない人には永遠にわからない楽しみだが。