登場人物の重みについて

 登場人物の描き方については、大いに関心がある。黒澤の映画の人物がおそろく薄っぺらなのは、彼が人間に関心がなかった、もしくは、彼のインテリ・コンプレックスだろう。

 伊丹十三も、強いインテリ・コンプレックスの持ち主だが、大江健三郎なんかより人間にリアリティがある。ひどく戯画化されているのに、その戯画化のされ方が生々しい。一方、たとえば黒澤の『生きる』の渡辺勘治は、だれにでも共感できそうなリアリティのある息子とのエピソードがあるにもかかわらず、中世演劇のエブリマンと同様、かえってだれでもなくなってしまい、存在の重みが欠けてしまった。そのうえ、『イワン・イリイチ』だの、『ファウスト』だの、あちこちから引用をするのだが、いくら外側を重武装しても、人物像としての中身の無さは、補いえない。

 他方、同じように、『ファウスト』を好んだ、ホンモノのインテリの手塚治虫は余裕だ。手塚は、なんども『ファウスト』を作品化しているが、中でも『火の鳥・鳳凰編』が出色だろう。『ファウスト』という作品の表面ではなく、『きつねのライネッケ』を書くような生の不条理を問うゲーテをよく知っていればこそ、主人公の茜丸の変節は、まさにゲーテの『ファウスト』以上にファウストらしい作品になっている。

 ルカーチは、物語を、叙事詩(エポス)、ロマン、娯楽読物(ミステリーやライトノヴェル)の3つに分けている。ロマン、というのは、日本ではわかりにくいが、ヨーロッパには、いまでも多くある。600ページ以上の大河歴史小説だ。これは、ノヴェルではない。ノヴェルというのは、ロマンではない、新しいもの、という意味で、ロマンの方が形式的に古い。日本で言えば、ロマンは、山岡荘八とか司馬遼太郎とかが書くようなものを意味する。

 ルカーチによれば、叙事詩は、神々の物語であり、始めも終わりもない世界に安んじている。ギリシア時代のもののほか、『ニーベルンゲンの歌』などが典型だ。一方、『ドン・キホーテ』以降のロマンにおいては、主人公が自分の居場所としての故郷を追われてしまっており、たゆまぬ遍歴を強いられる。この意味で、映画の『タクシー・ドライヴァー』なども、一種のロマンだろう。

 そして、問題は、娯楽読物で、まったくの無意味だ。この無意味、というのは、ニーチェ的な意味の無意味であり、海岸に打ち寄せる波のように、いくつも作られるのだが、なにも残さない。ある意味ではたしかに叙事詩に似ているが、その世界も持たない。だじゃれのような物語。日本では、星新一だの、筒井康隆だのから、おかしくなった。当時も、今も、まともな文学者が彼らの作品をまともに評価しないのは当然のことだろう。しかし、その後の影響たるや膨大で、いまやその類が、文学の大半を占めるに至ってしまった。

 かといって、ハイデッガーのロマン批判は、まったくのアホとしか言いようがない。ニーチェの思想を引き継いで生の一回性を言いながら、『存在と時間』が、結局、どこのだれでもない世人一般の実存の話に堕したことにも、彼がニーチェの存在の重みの意味をまったく理解していなかったことが現れている。ようするに、彼は他人の人間としての存在には、黒澤同様、関心がなかったのだろう。人が世人であったのではなく、彼にとっての他人が、その死を前提としない限り、個性のない世人だった、ということにすぎない。

 一方、キルケゴールニーチェの言う存在の重みは、ルカーチも気づいたように、自分の世界ではない、それゆえ、自分自身さえもまったく自分のものではないという呪いが科せられている。その呪いは、死を思うよりなにより、生まれた最初から、絶対的に他人とは違う。呪われた唯一無二の孤独であるがゆえに、世人との比較もなにもなく、他人から理解されることもありえず、自分が自分でどうにかしなければならない。つまり、ロマンの登場人物は、そこらによくいるような、だれでも共感できるような人物ではありえないのだ。それどころか、だれからの同情も理解も達しえない。デモーニッシュな狂気と紙一重のところで、自分という理念を内側から打ち立てることのみによって、自分を支えている。それがなければ、その主人公は、世界の大気圧以前に、自分自身があるという存在の重みそのものにつぶされてしまっているだろう。

 ロマンの主人公は、世界内存在ではない。世界は彼をアロンソ・キハーナと呼ぶが、彼自身はドン・キホーテとして、その世界には収まらず、自分の世界でない世界に槍を突き立てる。その存在そのものが槍であるから。だから、世界の中に一時でも座れる場所がない。立ち止まることさえも許されない彷徨をつねに強いられる。しかし、その彷徨の苦役さえも、彼からすれば、いつの日か彼岸に至るための試練であり遍歴であり、なんの苦役にもなりえない。それは、おそらくハイデッガーのような無神論者がもっとも嫌い、その存在を認めまいとしてアウシュビッツに送り込もうとした本来的な人間の存在の様態だろう。

 『マルサの女』でも、マルサの板倉亮子などより、権藤英樹や蜷川喜八郎、パチンコ屋店長の方が重みがあるのは、そこにむしろティパージュ(類型)ではありえない過剰を抱えているからだ。権藤は、あきらかにリチャード三世を意識して人物の内面が構築されている。彼は人に理解されようなどと思っていないし、彼のことをだれかが理解できるなどということも期待していない。彼は自分で存在している。この人物像の重みは、同じ山崎努が黒澤映画の『天国と地獄』で逆に攻める側になった同じ名前の権藤と比較してみるとよくわかる。こっちの権藤は、三船俊郎の出演作の中でももっとも薄っぺらい。現場の叩き上げだの、理想の靴を作りたい、だの、地位より息子だの、わかりやすすぎる。まさに世界内に存在しているが、これでは内側が空っぽだ。

 近年の小説やマンガは、まさにインテリ・コンプレックスの黒澤同様、あちこちから知的なひけらかしのように、容貌もプロットも、ごちゃまんとあちこちからパスティーシュしてくる。どこかで見たような人物、どこかで聞いたようなプロットばかりだ。コミケあたりの素人のオマージュか、ついでのおまけの冗談ならともかく、プロが売り物の主力作品でやることじゃないだろう。そのうえ、この手をやればやるほど、人物はわかりやすくなり、空洞化し、存在感が無くなる。

 一方、プロの小説家も、創造力が欠如しているらしく、死んだ義弟だの、昔の友達だの、実在の人物からのパクリが多すぎる。まして、自分自身の人生からぱくった私小説などというのは、論外だ。実在の人物を掘り下げれば、みんな唯一無二に決まっているし、そこには存在の重みがあるに決まっている。しかし、それなら、その人物そのものを直接に多面的に見た方がおもしろいのであって、小説の文章に押し込めてみたところで、出来の悪いコピー機のようなものだ。

 プロなら、ぺらぺらの白紙の原稿の中に、その原稿用紙を突き破って出てくるような人物を創造し、問題提起すべきだろう。そういう人物は、かのドン・キホーテのように、文章の中には収まらず、その外にまではみ出てくる。さらには、ジャン・ジュネ井上光晴のように、私小説風に綴り語った「自分」まで、まさにそういう異質な重さをもった虚構の人間であるくらいであってこそ、それが物書きだと思う。