旅行の意義と読書の意義

 ときおり、ヨーロッパのどこへ行った、アメリカのどこへ行った、と、自慢げに語っている人を見かけるが、なんと言ったものか。まあ、彼らの話を感心して聞く連中が、彼らの勘違いを助長しているのだろうが、どこかへ行ったことがある、そこを知っている、というのは、なにか偉いのだろうか。

 ヨーロッパにいると、どこの街にも、じつはけっこう日本人が静かに住んでいるのがわかる。まったく日本人が住んでいない街の方が珍しいくらいだ。どこそこの街へ行った、などといっても、そこに住んでいる人と較べれば、話にならない。そもそも、旅行で街中のホテルに数日いたくらいで、なにがわかるものか。住んでいる側からすれば、バカも長期休暇を取って出直してから口を開け、と思う。

 日本でもそうだが、東京の人間が東京タワーになんか行かないように、ヨーロッパの人間も、自分の街でも観光地になんか行かない。私も、昔、ハイデルベルクに少しの間、住んでいたが、当時、結局、一度も城には行かなかった。あんなぶっ壊れた廃墟など、わざわざカネを払って入るようなところではない。それよりも、むしろ郊外の野っぱらとか、河っぺりとか、景色を眺めて気持ちのよいところは、もっといくらでもある。

 そうでなくても、ヨーロッパの街は、奥が深い。街の中心など、きわめて特殊なところで、一般の人々は新市街の住宅地か、郊外の一戸建て新興住宅地に住んでいる。また、その周辺には村が点在し、村の外れには農家がある。これら数十キロ四方で一つの街だ。広場だの教会だのだけを見て、ヨーロッパの街がわかった気になるのは、東京タワーだけを見て、東京を語るくらい無茶だ。

 そもそも、人は、旅行に行かなくても、一生の同じ時間を、別のどこかの場所で過ごしている。みんな、だれもが、ほかの人の知らない場所を知っているのだ。むしろ、旅行先など、むしろみんなが知っている場所で、みんなが知っていることを知っているからといって、知らない人より偉い、というほどのことではあるまい。

 この話、旅行のことが言いたいのではない。旅行の話は、学者で、私はハイデッガーを読んだ、とか、カントに精通している、とか、いうのと、変わらない。学者が本を読んでいる間に、ほかの人は、ほかのことをやっている。どちらが偉い、というような話ではない。そして、旅行同様、本を読んだくらいで、いったいなにがわかるものか。本などというのは、それを書いた人の人生の時間のごく一部分の言葉で、その背景に膨大な生活がある。そして、そんなものを知り尽くしたところで、なんの意味があるだろうか。

 たしかに旅行はおもしろい。人の生活を見て、自分の生活を省みることができるから。読書もそうだ。しかし、人の生活や思想を知っているから、ということ自体は、何の意味もない。まして、それを知り尽くしたところで、どうだ、というのか。人の生活、人の思想、人の言葉を知っていても、自分の生活、自分の思想、自分の言葉を失ったのでは、その人自身は偉いどころか空っぽだ。だいいち、人の生活や思想、言葉だったら、旅行した人や読書した人に聞かずに、自分で直接に見に行く、聞きに行くから、そんなやつは、この世にいらないよ。