考える、という仕事

 理系の連中が嫌いなのは、ほんとうの文系の研究にまったく理解がないから。言っちゃなんだが、理系の研究というのは、大半が作業だ。朝9時から夕方8時まで、機械を使って試みる。もちろん、文系の研究でも、いまや大半の連中が作業で、貸借対照表のように、外国の文献を寄せ集めて、ちゃちゃを入れるだけ。だから、どっちもみんな、論文を何本書いたか、なんて話ばかりしている。

 しかし、昔の立派な文系の学者を見ると、論文なんか書いていない。だが、十年に一冊、大著を書いている。それも、スコラ的な引用なんかほとんどない。たまにあったって、引用なんか、かなりいいかげんだ。というのも、彼らのやっているのは、昨今のような学者学ではなく、社会のことや倫理のこと、世界のことに直接に目を向けて、そこに新しいアスペクトを切り出す仕事。だから、古典たりうる。

 それは、なにか新しいものを創るわけではない。そこにあるものを見ること。そこにあったって、見れば見えるというほど、現実は甘くはない。だから、見方、考え方を考えることが必要なのだが、素人さんには、わけがわからないだろう。まして、学問をわかった気になっている理系や、学者学の文系の連中は面倒だ。

 たとえば、海水なんて昔からチャプチャプしているのだが、そこに親潮黒潮という概念を立てて、それで海流変動を説明しようとする。これが見方を創るということ。頭の悪いやつは、親潮黒潮なんて、学者が言わなくても、前からそこにある、事実を記述しただけでは学問にならない、なんて言う。しかし、人が言ったから、そこに見えてきたんで、それは言う前には見えなかったものだ。

 言語学など、もっと典型的だ。日本語を話せる人なら、みんな日本語の文法も知っている。しかし、この「知っている」ということは、話せる、というだけで、その全貌を理論的に説明できる、ということではない。だから、それをやるのが、言語学だ。それも、自分で勝手に文法を創ってしまったのでは話にならない。あるがままをうまく図面に書き起こす。

 どんな謎解きでも、答えを見れば、最初からそこに答えがあったかのように思える。だから、そんな答えはだれにでも明らかだ、という気になる。しかし、そう思うなら、おまえが先に答えてみろよ、と思う。

 理系の中でも、いまの時代、数学や農学などは不遇だ。化学のように、ひたすら作業として実験すれば、うまく行っても行かなくても、その実験結果だけでペラペラの論文をあちこちに発表しまくる連中と同じ基準で言われても、返す言葉もない。数学のひらめきなんて、数年考えて1行だけ、だが、その一行が世界を一変させる。一方、農学も、実験も1年に1回だけ、十年がかりでないと、研究にならない。

 もちろん、化学などでも、実験方法そのものを画期的に変える研究がないではないが、そんなのは例外中の例外だ。たいていは、実験機械を大きく強くする、ということしか考えつかない。というわけで、科学史で言うと、画期的な研究というのは、先端ではなく、つねに先端から少し切り戻したところから枝分かれして発展する。十九世紀末、最先端の蒸気機関ではなく、不可能とされた内燃機関から現代の自動車が生まれてくるのが典型だ。ちょっと前で言えば、宇宙をめざすロケットなんかより、ロケットの軌道計算からパソコンが誕生する。現代で言えば、半導体なんかより、その素材の精錬から派生した純鉄の方が将来性がある。

 正直に言って、「最先端」をひたすら作業で掘り進める学科は、ほんとうは本来の大学には属していない種類のものだ。そんなのは、民間企業でやればいい。ところが、日本では、上からの学問啓蒙、ということで、明治時代に、工学部なんていうわけのわからん作業セクションを国立大学の中に入れてしまって、文系も、外国語の専門学校みたいのが文学部に格上げされた。本来の大学が担うべき、考える学科は、その片隅に追いやられ、それも外国学者学の輸入作業を行うだけの連中に浸食された。これじゃ、自動車学校と大差ない。

 とはいえ、今の大学の中で、学問とは、先端から一歩引き下がって、黙ってじっくり考えるものだ、なんて言ってみたって、相手にされないだろう。なにしろ、最先端を気取っている実験作業や翻訳作業ばかりの連中がほとんどなのだから。しかし、人の話にちゃちゃを入れるだけの論文ではなく、せめてたまにはちゃんと業績らしい本を書いたらどうなんだろうかね。ところが、彼らに言わせると、本なんか、論文のような学会査読がないから、業績としてカウントしない、とか。ほんとうに救いがたい。業績としてカウントしてほしくて研究をやってるわけではないから、好きに言っていればいいけれど、それにしても、学者の仲間内の評価なんかどうでもいいから、学生や社会に役に立つ、新しい考え方を打ち立てる、というような、研究者としての崇高な理念を持つ気はないのだろうか。それじゃ、学生や社会にあなどられるのも、当然だと思うが。