嫉妬と天才

日本では明日からセンター入試だとか。なんどか監督業務をやったが、受験生も大変だが、監督もかなりしんどい。昨今、受験生で全科目を受けるやつなんていない。が、監督は全部。あんなの、カンニングなんかしてどうにかなるような試験ではないのだから、不正なんてまずありえない。ただ紙を配って、黙ってじっと眺めているだけ。おもしろくもない。まあ、仕事だからおもしろくなくても仕方ないが、それなら、紙を数えるだけの本部業務の方がいいなぁ。

それにしても、東大を出ていると、突然、妙なのに突っかかられることが多い。もう慣れているので、べつに驚きもしないが、それにしても多い。それも、みんな突っかかり方が同じで、オリジナリティがないところが、凡人の凡人らしさか。そういうのは、たいてい、東大も近頃は、とか、東大を出ているくせに、とか、面識もないうちから、難癖をつけてくる。近頃の東大、なんてったって、あんなバカでかい大学、「近頃」だろうと「当時」だろうと、どこがどうなっているのか、誰が何をやっているのか、なんか、わかるわけがない、と思うのだが。

なんで日本は、こんなに学歴に嫉妬深い連中を大量に作り出してしまったのだろう。センターだの、偏差値だので、序列づけしたからだろうか。そもそも、彼らは何に嫉妬しているのだろうか。現実に東大を出てサラリーマンになるより、うまく商売を当てた個人事業者の方が収入が多い。だったら、いまさら人に嫉妬することもなかろうに、余計なお世話だ、と思うのだが、連中の劣等感の闇は深い。いくらカネがあっても、勉強ができなかったとか、学歴が最高ではなかったとか、ということは、死ぬまで、彼らの、人生で二度と取り戻せないコンプレックスとして凝り固まっている。

知力、というのは、体力のように、見えないことも一因だろう。野球選手なんかに嫉妬するやつはいないものなぁ。そのうえ、体力の違いは、だれにでも見てわかるが、知力の違い、というのは、知力そのものがないとわからない。ここが問題だ。

だれにでもわかりやすい例で言えば、たとえば、1から2、3、4、5、と順に100まで足していけ、と言われて、ソロバンの腕を磨いて、いかに速く計算するか、日々、努力するのが秀才。努力さえすれば、自分にもできる、と思うだけなのが、凡人。天才は、5050と即答する。頭の中で100までの数列を思い浮かべて、ポキッと半分に折る。101が50個。

33番目まで足したところはいくつだったか、などと聞かれても、天才は答えられない、そんな途中の、細々としたことは知らない。それどころか、なんでそんなことを聞くのか、なんでそんな答えが必要なのか、とまどう。それを見て、ほらみろ、と、凡人は喜ぶ。

モーツァルトの作曲の仕方などもそうだ。和声的に最適の2小節のモティーフが決まったら、全曲ができたも同じ。後は、他の人にもわかるように、楽譜に起こしていくだけ。実際、彼の『レクイエム』は未完成だったが、他の人が残りをやっても、ほぼ同じになる。(シューベルトは天才ではなかったから、彼の『未完成』はそうはいかない。)

秀才が虫のように地上で1つずつ線形に考えていくのに対して、天才は鳥のように上から平面、さらには立体で、問題を一発でとらえる。ガロワ理論なんて、その典型だ。算術とは違う数学。ごちゃごちゃした計算なんかしないで、全部に関する答えを一度に出してしまう。

アメリカやヨーロッパ、中国だと、天才を天才として評価するシステム、天才の天才性を開発するシステムが確立されている。が、日本は、そうではない。秀才たちといっしょに、普通のお勉強をさせられ、センター入試みたいのを受けないといけない。とはいえ、ガリガリやらんでも、まあ、なんとかなるのが、天才の天才たるゆえんで、世界史の年号なども、西洋史も東洋史もいっしょに、1世紀単位で、1枚の年表として覚えてしまうもの。(1世紀なんて、しょせん1から100までしかないのがわかってしまえば、そんなに難しいことではない。)

(とはいえ、近年のセンター入試って、問題が中途半端に天才型になってきていて、あんなの、ふつうの学生にやっても、あてずっぽにしかならんだろ、と思う。秀才型と天才型とは、やりかたが根本的に違うのだから、中途半端な出題は、どっちにとっても迷惑なだけではないだろうか。)

実際に本当に努力してみたことのある秀才たちは、天才が自分たちには絶対できないことを一発でやるのを見て知っているから、まだいい。やってみたこともなく、努力さえすれば自分だって秀才や天才になれるはずだ、と思っているだけの凡人は、ほんとうにやっかいだ。秀才ができることを天才ができない(しない)のを見つけて、自分が勝ったかのように、大きな口を開けて笑う。そもそも、勝った、負けた、で、考えているところからして、答えの見えない真理探究の学問を、白黒のつく雑学クイズ番組かなにかと勘違いしている。彼らは、つねに人に干渉していることでしか、自分の存在の無さを直視しないでいる方法がないのだろう。困ったものだなぁ。べつに学歴なんか、あったって、なくなって、自分のやりたいことを楽しくやって暮らしていればいいのにねぇ。