アクション・ラインについて

昨日の続き。「アクション・ライン」なんて言わない、「イマジナリー・ライン」だ、と、ある研究者にケチをつけられたこともある。しかし、これもまた、ケチをつけた側が不勉強なだけだ。この程度のテクニカルタームは、いまどき、あちこちの翻訳本にだって出ている。だいいちアクション・ラインというのは、マルチカムとそのカット編集の180度ルールで言うイマジナリーラインとは、まったく別の概念だ。

そもそもイマジナリー・ラインというのは、映画用語ではなく、演劇用語だ。屋外の広場などで繰り広げられる中世の即興劇では、もともと演劇世界と観客世界は一体化している。役者が平気で観客に話しかける。それどころか、観客の飛び入りもありだ。ところが、ルネッサンスシェイクスピアあたりから、古代演劇の理念が復活して、演劇世界はその中で閉じていなければならない、という、妙な規則が生まれてくる。ここで、演劇世界と観客世界を隔てる一線として、イマジナリー・ラインが登場する。ただし、当初は直線ではなく、「サーカス」として、円形ないし半円だ。いずれにせよ、そこでは、まったく別世界が隣り合っている。しかし、誰も越えることはできない。そのうえ、それはマジックミラーのように、こっちから向こうは見えるが、向こうからこっちは見えないことになっていて、演劇世界はこっちへ無限に延びていることになっている。

劇場が整い、奥行を持つ額縁舞台が成立すると、イマジナリー・ラインは直線になる。それでも、舞台袖やエプロンステージのようなものは残り、ここで、司会進行役が中から外へと誘う、というような仕掛けが用いられた。しかし、近代になって、リアリズムが重視されるようになると、イマジナリー・ラインは、「イマジナリー・ウォール」とも呼ばれるようになる。「第四の壁」などという言い方もあるが、これは現実の演劇に即していない言い方だ。というのも、屋外を舞台とするセットも多く、ここではイマジナリー・ラインに別の建物の壁があることになっている。また、室内セットの場合も、舞台の奥側は、壁ではなく、大窓になっていて、その向こうに演劇世界の屋外があることになっているからである。(つまり、手前は第四ではなく、第三の壁。奥も壁なのは、二階建てセットで、観客側に部屋のドアが並んでいて、階段や二階廊下の手すりが露出している場合くらいだろう。)

むしろイマジナリー・ウォール、第四の壁という概念は、映画で重要になる。初期の映画は、大光量を必要としたため、通常の室内で撮影することは不可能であり、天井の無しで照明だらけの室内セットを組まなければならなかった。この際、便宜的に一方の壁を取っ払ってしまうことがしばしば行われた。ところが、カメラの視点は、室内になければならない。構図ばかりに気を取られていると、まさに壁の外から透視したような絵になったり、床の下から見上げているような絵、天井裏から見下ろしているような絵になったりしてしまう。だから、カメラをセットする際に、自然にありうる絵かどうか、イマジナリー・ウォールを破っていないか、注意しなければならない。(日本の絵巻物は、そんなことはまったく気にしていないのがすごい。)

で、映画でイマジナリー・ラインと言うか、という話だが、こっちの方が怪しい。ふつうは、2ショット(2人の役者)をつなぐ線を、演劇世界と観客世界を隔てる一線として用語法が確立しているイマジナリー・ラインという言い方を用いる方が無理があるだろう。普通は、カット・ジャンプの「180度ルール」と言う。つまり、カットを切り替えるとき、次のカットは30度以上180度未満の角度でなければならない、という話だ。これは、マルチ・カムに限らないのであって、したがって、マルチ・カムでしか存在しないイマジナリー・ラインをあれこれ言うのは場違いだ。

2ショットで問題になるのは、むしろアクション・ラインと呼ばれるものだ。アクション・アクシスとも言うが、軸というより、もっと柔軟に曲がって延びる。これは、能動主体と受動客体をつなぐ仮想線で、マルチ・カムでなくても、つまり、カットバックのバラ撮りでも重要になる。わかりやすい例で言えば、拳銃を持っているガンマンの絵を、画面いっぱいに撮ってはいけない。なぜなら、ガンマンの拳銃の先に、さらに見えないアクション・ラインがあり、これが写り込んでいないと、いまにも撃つぞ、という力が見えないからだ。同様に、拳銃を向けられておびえている方も、向けられてきている側にアクション・ラインがあり、これを画面に取り込んでおく必要がある。

つまり、観客は、存在を見るのではなく、そのアクションを見る。そのアクションが起きようとしている空白の空間こそを見ている。カメラは、観客の予感そのものとして、この空白にこそ向けられていなければならない。したがって、このアクション・ラインは、180度ルールではなく、「シルエット・ルール」との関係で角度が決められる。すなわち、アクションは、その見えないアクション・ラインを含む全体のシルエットがもっとも変化する角度から撮影されるべきである、とされる。このために、アクション・ラインの内側でのカットバックは、アクション・ラインが遠近でつぶれてしまうので、基本的に用いられない。唯一の例外は、アクション・ポイントが客体にあるPOV(見た目)で、この場合、角度だけでなく、POVの距離も守らなければならない(望遠アップはダメ)。

2ショットの場合、能動主体や受動客体よりも、見えないこのアクション・ラインが画面で撮るべきものとなる。そのうえ、その力関係で、その中心点(アクション・ポイント)が変わる。能動主体が圧倒的に優位だと、画面の中心は受動客体に近づき、逆に五分五分なら、アクション・ラインの中点になる。

このことは、自動車やバイクにも言える。速く走る車は、進行方向に大きなアクション・ラインがあり、余白が大きくなる。大きくカーブしようとしている場合、カーブする先の道の方にアクション・ラインが延びており、それがあらかじめ写り込んでいなければならない。

アクション・ライン(アクション・ポイント)の理論からすると、マルチ・カムの180度ルールなど、たいした問題ではない。アクションのシルエットの関係で、能動主体や受動客体、アクション・ポイントをピヴォット(蝶番)に、どっちへ切り替えてもかまわない。『マトリックス』で有名になった三六〇度カットなど、アクション・ポイントとシルエット・ルールの映像的重要性を示す典型的な例だ。そもそも、日本の小津は戦前の180度ルールなど、端から無視した。そして、世界が小津を知った後に、180度ルールを言うこと自体、時代錯誤だろう。小津こそが、このアクション・ラインの空白の重要性の発見者であり、先駆者なのだから。