ネットのウジ虫たち

キーファー博士は、いろいろあって、話が暴走している。おもしろい。今日はカナダの話。カナダ映画なんて知らない、と言うかもしれないが、とんでもない。カナダには怪人監督デヴィッド・クローネンバーグがいる。ちょうどクラシック映画とDVD時代の隙間に落ちてしまって、いまはやや忘れられた存在だが、じつはかなり重要な位置にある。

彼の映画『ザ・フライ』(1986)は、『ホット・ショット』とともにソニーのベータ規格のビデオデッキのおまけとして大量に出回った。ジャパニーズ・ホラーを日本のオリジナルだと勘違いしている人も少なくないが、鈴木光司の『リング』(1993)や瀬名秀明の『パラサイト・イヴ』(1995)は、まちがいなくクローネンバーグの模倣亜流と言っていい。彼らにクローネンバーグの『ビデロドローム』(1981)や『スキャナーズ』(1982)を知らないなどとは言わせない。当時のレンタルビデオ店での大人気B級ホラー作品だったのだから。いまやマンガでも、これらの模倣亜流の映像表現があちこちに溢れている。もっとも、彼らはもう、クローネンバーグのオリジナルは知らないのだろうが。

みずからマッドサイエンティストとして映画にしばしば出演している容貌怪異なクローネンバーグは、もともとトロント大学の生化学出身だ。それが文学部に移ってSFを書いて映画監督になったのだから、話に手が込んでいる。

キーファー博士の重要な指摘は、当時のトロント大学におけるマクルーハン教授の強大な存在だ。クローネンバーグのSFホラーは、ただのSFホラーではなく、テレビや転送装置による人間拡張が契機となっている。『グーテンベルクの銀河系』(1962)を書いたマクルーハン教授は、ネット社会を予言する人間拡張を肯定的に捉えたが、そのときの学生クローネンバーグは、それをグロテスクなホラーとして予感した。

この年末になってようやくキーファー博士の講義の全体像が見えてきた。ドラゴンレディにしても、『ブレード・ランナー』にしても、『グラン・ブルー』にしても、ポストモダニズムにおけるメディアによる人間拡張との関連で語られているらしい。ホンモノになろうとしてニセモノに落ちる。その話の落としどころがクローネンバーグの『ビデオドローム』『スキャナーズ』『ザ・フライ』だとは思わなかった。すごい急展開だ。

クローネンバーグの時代(一九八〇年代)では、テレビだの、超能力だの、転送装置だのと言っているが、先述のとおり、ポストモダニズムは、一般に、印刷に代わるインターネットで定義される。この視点からレトロスペクティヴに彼の作品を見るとき、そのホラーは俄然としてリアリティを帯びてくる。クロ-ネンバーグは、その後、『クラッシュ』(1996)で自動車事故への性的倒錯を採り上げ、くだらない、わけがわからん、と揶揄されたが、ネット上の情報にしかセクシュアリティを感じない人々の存在は、いまや世界的に現実のものとなった。

ザ・フライ』は、古い『ザ・フライ(ハエ男の恐怖)』(1958)のリメイクだが、もとをたどればカフカの『変身』(1915)に行き着く。カフカでは、転換は不条理な受動的な事件でしかなかったが、『ザ・フライ』では、『ジキルとハイド』のようにみずから転送装置による人間拡張を試みて、その拡張とともに、取るに足らないハエを自分の存在に取り込んでしまう。しかし、その結果、その人間の存在の方がハエになっていく。それは容姿よりも、まず思考を犯す。しだいにハエのようにしか考えられなくなっていく。旧作の方は、逆の、人間の頭のハエを探す、というプロットに展開するのだが、クローネンバーグは、この隠喩性に気づき、ついにはハエ男そのものにまで転送装置が食い込んでしまう。そして、その妻は、ハエ男の遺伝子を引き継いだ子供として、大量のウジ虫を産む。

タバコを吸っているうちにタバコに命を吸い取られ、自動車に乗っているうちに肥満脂肪が乗りかかる。そしていまやインターネット中毒の人々は、頭の中からウジが湧き、全身を情報の虚像に乗っ取られ、ハエ男、ハエ女と化していく。その隠喩性に気づくと、キーファー博士が指摘するように、クローネンバーグの一連のSFホラーは、B級映画などとして片付けられない哲学的な問題を提起している。