芸術家の災難

うーん、キーファ博士、どんどん迷路に入っていく。先週の『バートン・フィンク』に続いて、『ベティー・ブルー』(1986)だ。売れない小説家が、いっちゃってる超美少女に破滅させられていくお話。日本ではポルノ扱いだが、ヨーロッパ映画には珍しく、彩度の高い、色あざやかなシーンが次々と繰り広げられる。そのうえ、このいっちゃっている超美少女が、いっちゃっているだけにエロい。だが、やること、なすこと、むちゃくちゃだ。家に火をつけるは、客をフォークで突き刺すは、原稿をけなした編集者をぶちのめすは、挙げ句に自分の目をえぐり取ってしまう。

もうひとつは、デレク・ジャーマンの、古い方の『カラヴァッジオ』(1986)。先週の『画家の契約』(1982)と同様、1600年ころの話なのに、さりげなくバイクが出てきたり、電卓があったり。雑誌に特集されていたり。もっとも、80年代って、この手のアナクロは、むしろはやりで、バイクに乗った騎士が走り回る中世映画、なんていうのもあった。

さらに、コッポラの『ワン・フロム・ザ・ハート』(1982)。ラスヴェガスをセットで作ったというとんでもない映画。正直なところ、こういう羅列となると、しだいに意図がわからなくなってきた。というか、話している本人も、迷走している自覚があるような、ないような。原理原則のないポストモダニズムを筋立てて説明する、ということ自体、無理があるのだろう。

ところで、『ベティー・ブルー』と言えば、スティーヴン・キングの『ミザリー』だ。映画は1990年、原作の小説は1987年。これ、似てないか。盗作とは言わないが、一種のアイディアのパクリだろ。目をつぶすプロットなんかが、それを暗示している。もちろん、キングの方が物語として格段にうまい。自傷癖のあるエロい超美少女、という登場人物も悪くないが、直接攻撃的な独身三十女の方がはるかに怖い。そのうえ、三十路だけに、この女、なにか過去があるらしい。エロ少女で破滅するのは自業自得だが、三十路女のいる雪山の密室というのでは、閉塞感が違う。とくに映画では、アニーを演じるキャシー・ベイツが、むちゃくちゃうまい。演技とは思えない迫力だ。

アニーではないが、マンガの業界では、編集者がマンガ家に物語を強制するのは、もはや日常化してしまった。原作者、なんて言ったって、仕事が当てにならないし、マンガ家自体、絵が描けてても、基礎教養がないから、まともに物語が創れない。そこで、編集者が手助けをする。が、編集者にしたって、ちょっとした大学を出て、有名出版社に入ってしまっただけで、マンガ家よりはマシとはいえ、ストーリーテラーなわけではない。それで、マイナーな外国映画からプロットをパクる、というのが横行する。まあ、マンガしか読んでいない連中は気づかないし、映画好きは、いまどきのマンガなんかもう読まないから気づかないが、そのマンガを映画にするとなると、弁護士が調べまくって、問題が露呈してしまう。そういう映画化の話は、たいていウヤムヤに消えていく。

で、話は戻って、ポストモダニズムだが、キーファー博士の話だと、ポストモダニズムは、すでにすべては語られた、新しいものはなにもない、というところから始まる。そこで流行するのが、ブリコラージュだ。『ナウシカ』ではないが、新しいものを創造し製作しようとすることさえなく、そこらにある廃材を、その本来の目的ではない用途でつぎはぎにして、必要なものをでっち上げること。それで、おじょうず、とか言ってほめあっている。レヴィ・ストロースだの、デリダだのが持ち上げて、ブリコラーシュを得意とするブリコルール(器用人)を賛美するのが、いまやハヤリだが、一言で言えば、たんなる一種の寄せ集めで、ようするに決定的な才能が無いのだろう。

疑似数学的なもの言いをすれば、いくら既存の部品を組み替えても、その体(演算体系)を越える答えが出ることはない。すべては語られたところで、語られたものを組み替えても、やはりなんらかの意味で語られたものしか生まれない。キングのようにうまいとしても、独創ではない。哲学史をいじくって、その部品を組み替えても、哲学など絶対に出来ない。プラトンの言う哲学者は、その外に出て見てくる者だ。芸術家も同じで、ポストモダンの中で組み替えをやっているようなのは、しょせん亜流。天才は、良いも悪いもなく、そういう評価のしようもないような枠の外へ出て行って来てしまう。もちろん、行ったきり、帰ってこない人も少なくないが。

独創は評価できない。そこに尺度が無いから。ところが、困ったことに、ポストモダニズムのバカどもは、自分の限界を尺度に、すべてはすでに語られた、と信じている。天才も、独創も、ありえない、いずれの尺度でも計られれえないものは、たんなる規格外だ、と見なしている。地球が平らで四角いと思っていた中世人のようなものだ。こういうドグマの下では、モヤシのようなものしか育ちえないだろうなぁ。しかし、本当の独創や天才は、それ自体で存在しうるのだから、人の評価なんて最初から必要としていないものだ。