芸術家にとっての悪魔の契約

今日のキーファー博士の話は、英国映画『絵描の契約(The Draughtsman's Contract)』(1982)が素材。この映画、日本では『英国式庭園殺人事件』などと、安っぽいタイトルをつけられてしまっているが、ピーター・グリーナウェイの難解な長編第一作。長編も長編、もともとはテレビのミニシリーズだから、3時間もある。出だしからダラダラと登場人物が勝手に話をしている。こんな変の、よくテレビで作らせて、流したものだなぁ。

そもそも、この映画の根本からして、妙ちくりん。名誉革命後の1694年を舞台としているのだが、画家が描くように命じられたものは、イングランド式の自然景観風の庭園。だが、こういう庭園は、貴族的で人工的なフランス式幾何学庭園に対する18世紀の批判から生まれてくるもので、当時はまだ存在していなかった。しかし、これは、たんに時代考証が甘い、というのではない。それどころか、内線電話なんかが途中で平気で出てくる。つまり、完全な確信犯としての時代錯誤だ。

もうひとつ採り上げていたのが、コーエン兄弟の『バートン・フィンク』(1991)。これも、社会派の劇作家が通俗的なレスリング映画を依頼される話。ところが、缶詰にされるホテルでは、わけのわからない悪夢が繰り広げられる。詳しくは論じなかったが、チャーリー・カウフマンの『アダプテーション』(2002)にも言及。これも、カウフマン自身が映画の主人公で、本の映画化を依頼されるが、その依頼された物語の中に関わっていってしまう。

どういう脈絡から、これらの映画に話が飛んだのか、というと、芸術家にとってのモードの強制、という問題。モードを強制されている、つまりモダンでなければならないとされているのに、作品自体がポストモダニズム、反モダニズムで、その中のモードがあえてゴチャゴチャにかき乱されている。共通する鍵は、契約。『ファウスト』との関連を指摘したところで時間切れ。