70年前の水晶の夜

 いまから70年前、1938年11月9日、事件は起こった。いや、事件は、その2日前の11月7日に起こっていた。

 ハーシェル・グリュンスパン。まったくどうでもいいクソガキだ。ハノーファーに住んでいたポーランド系ユダヤ人の仕立屋の息子。子供のときから素行が悪く、放校処分になってしまったため、父親は彼をフランクフルトのユダヤ教タルムート学校に送った。が、このガキは、ここも1年足らずで勝手に辞めてしまった。当時、15歳。

 この後、親戚を頼ってブリュッセルの叔父へ。しかし、当然、迷惑がられる。やむなく、こんどはパリの親戚のところへ。しかし、密入国では、滞在許可が出るわけもない。かといって、彼の帰国は、ハノーファー警察が拒否。やがてフランス政府も、彼に国外退去を命じる。自暴自棄になった、この17歳の粗暴少年は、11月7日、ドイツ大使館秘書を襲撃し、撃ち殺した。そして、堂々とつかまって、すべてナチスが悪いんだ、と開き直った。

 宣伝相ゲッペルスがうんぬん言うまでもなく、こんなクソガキのやること、言うことを、ドイツ人たちが快く思うわけがない。とくに、ある意味で同類の、ドイツ人の下層クソガキたちがぶちきれた。そして、11月9日、連中はユダヤ人の店や家を襲撃した。警察も、消防も、彼らを放置した。窓ガラスが飛び散り、通りは水晶のように輝いていた。それで、今夜は「水晶の夜」と呼ばれる。

 外国で、あれこれ言っても、状況はわかりにくいだろう。たとえば、私の住んでいるマインツの山の手は、かつてユダヤ人街だった。駅の周辺もそうだ。しかし、密集したゲットーなどではない。それどころか、整然とした巨大な御屋敷街だ。いくらユダヤ人は子供が多いとはいえ、こういう建物(現在だと8戸以上が分け合う規模)ひとつをまるまる一家だけで占有していたとなると、その財力は、昨今のそこらの会社の社長の比ではない。オランダのアンネ・フランクも、写真が多く残っているが、その生活の豊かさは、当時のドイツ人からすれば、うらやむことも及ばないほどだった。

 その一方で、貧しくとも地道に働いていたユダヤ人も多かった。ハーシェルの父もそうだ。しかし、当時、ほとんどすべてのドイツ人も、豊かではなかった。だから、社会からドロップアウトしたクソガキは、ユダヤ人だけでなく、ドイツ人でも、いくらでもいた。そして、ナチスは、彼らを利用して、台頭した。豊かなユダヤ人たちは、自分たちの親族のみの繁栄に専念しているうちに、とてつもない格差社会、縁故社会を作り出してしまっていた。しかし、なにもしなかった。そして、気づいたときには、目の前にナチスがいた。もはや手遅れだった。

 私の住んでいる通りの数件先の御屋敷には、金色に輝く歴史記念の真鍮プレートがつけられている。この家で水晶の夜にユダヤ人一家が閉じ込められ、焼き殺された、と。盗難や強盗を恐れて作った頑丈な壁と鍵が、彼らから逃げ道を奪った。閉じている者は、閉じ込められ、そのまま封殺されるものだ。