ポストモダニズムとはなにか

 キーファ博士、例の件が吹っ切れてしまったせいか、話がでかい。だって、もうべつに映画に話を限定する必要なんかないものなぁ。その方が他の可能性も高まるし。そもそも、べつに映画だけが専門なわけでないし。こっちとしても、その方がおもしろい。

 というわけで、今日もポストモダンの続き。ところが、例を挙げれば挙げるほど、学生が混乱してくる。質問が続く。この四半世紀、ヨーロッパの大学では、ポストモダニズムは、学際(専門横断)的な問題だ。しかし、この問題、いろいろ問題がある。この問題は、ヨーロッパとアメリカのズレから生じている。

 アメリカでは、エンパイア・ステート・ビルをはじめとして、アールデコが続いた。その後にネオダダが氾濫して、70年代にポストモダンとしてフリー・クラシックが登場する。これに対し、ヨーロッパでは、アールヌーボーアールデコと並行して世紀末的デカダンスが流行し、ダダやジャズが出てくる。しかし、30年代、ナチスは、デカダンスやダダ、ジャズを「退廃芸術」として否定し、マッチョ・クラシックが公認スタイルとなった。戦後は、ダダの発展として、シュールレアリズムだの、アプストラクト・クンストだのも出てきたが、先週に論じたように、戦後の復興そのものが、ポストモダニズムとして行われた。したがって、ヨーロッパのポストモダニズムは、ナチスが提示したクラシックに対しても強く否定的だ。だから、アメリカのフリー・クラシックなどというものを、ポストモダニスムと呼ぶ理由がわからない。

 そもそも、ポストモダニズム、という術語自体が、トリッキーだ。モダンを、近代などと訳している日本では、なおさらわけがわかるまい。モダン、とは、アップツゥデイト、つねに流行にオン、ということ。モダニズム、とは、日本語で言えば、流行主義。物事はなんでも時流に乗っていないといけない、という発想。そして、ポストモダニズムは、流行追っかけの後、ということになる。

 学術史的には、モダン、および、モダニズムは、グーテンベルクの出版術とともに始まった、と言われる。新聞によって次々とニュースが送られてきてこそ、それに対する追っかけも可能になる。これを政治に使ったのがルイ14世で、自分ででっちあげた「流行」を次々とアナウンスし、それを追っかけない貴族を社交界からはじき飛ばしていって、中央集権を確立した。このモダニズムによる支配システムは、その後、芸能でも、学会でも、至る所に利用された。とくに経営のマーケティングでは、計画的陳腐化という手法が唱われ、自分で創っておいて、しばらくすると、それはもう古い、買い換えましょう、と呼びかけ、必要以上に需要を再喚起することがよい、とされた。

 そして、インターネットとともに、モダンが終わった、と言われる。インターネットを創っている理系の連中はいまだにアップトゥデイトばかりしているが、ネットでは古いものと新しいものとが並列している。Vistaが出ても、XPでいいよ、というのがポストモダンというもの。書店が有限の面積を新刊書で効率化しようとするのに対し、アマゾンは、新刊よりもロングテイルを手厚く拾う。

 しかし、バカなことに、ポストモダンを言う評論家や似非学者、そしてその本を出す出版社、それを追っかけで読む連中が、どっぷりモダニズムに浸りきっている。ポストモダニズム自体が、一種の流行語で、えっ、君、まだポストモダニズムを知らないのか、っていう、言い方は、まさにモダニズムそのものだ。

 だから、まともなアカデミズムの中では、ポストモダニズムをゴチャゴチャ言う評論家や似非学者をまともに取り合わない、という人も多い。だいいち、実際、キルケゴールニーチェも読んでいないくせに、社会主義の残党がよく言うよ、というのが本音だろう。そもそも、社会学自体が、大学紛争のどさくさで紛れ込んだような学科で、学者や学術としても怪しい連中が多すぎる。大半が、そこらの雑誌でやっていればいい時事の話題で、わざわざ大学でやるようなテーマでもあるまい。

 ポストモダニスム、などと言うまでもなく、アカデミズムは、はなっからモダニズムに背を向けている。だいいち、アマゾンなんか出てくる前から、図書館は、ポストモダニズムだし、学者の関心も、ポストモダニズムだ。新しい説だから良い、なんて思っているのは、理系か経営学くらいだろう。

 そもそも大学の元の宗教の世界が、ポストモダニズムだ。世俗宗教では、救済をカウントダウンするが、修道院の中では、そんなカウントダウンは越権だ。救済は神の自由意志の領域であり、人がカウントダウンするようなものではない。すべて神様におまかせして、朝に夜に祈って、畑を耕し、書を読み、ビールやワインをかっくらって寝てしまう。そこには、今日も、明日も、あったものではない。まさに無意味な現世が永遠に続く。しかし、意味は神が与えるもので、人が心配することではないのだから、現世にとって現世が無意味なのは当然だ。ニーチェは、一見、無神論のように見えて、きわめて神学的な話をしている。

 つまるところ、ポストモダニズム、とは、哲学であり、生き方だ。新聞も、ニュースも、どうでもいい。新刊も、新説も、知ったことではない。古代の本でも、近代の本でも、古典(これがクラシック!)と呼ばれる良い本だけを繰り返し読んで、穏やかに暮らす。流行の追っかけもしないし、そもそもなにが流行かなどということも関心がない。それに比して、ポストモダニズムを言う評論家や似非学者の、そのポストモダニズムに対するモダニズムなこだわりたるや、まことに尊敬に値する。いろいろ難しい術語だらけでたいへんだが、プラトンアリストテレスが、はるかにわかりやすい、歴史を越える普遍的な言葉で語っていることなど、きっと御存知ないのだろう。

 キーファー博士は、ポストモダニズム、として、エクスタシー、を言う。これまた、学生にはわかりにくい。エクスタシスとは、ギリシア語で、輪廻からの解脱を意味する。無意味な循環から脱する。だが、キリスト教神学では、脱する、ということを、その外に出る、こととは解さない。だから、グノーシス的な二元論に拘泥したカタリ派は異端なのだ。むしろ逆に、ひたすらその中心、つまり神に近づく。どんな循環も、その中心は停止している。だから、世俗のただ中でこそ修道生活が成り立つ。

 学術に関しても事情は同じだ。コロコロ変わるものは、いちいち吟味するまでもなく、物事の周辺的な物事にすぎない。古典や名作のように、時代を超えて良いとされて残っているものは、真実という中心に近い。つまり、新しい流行は、新しい流行にすぎないがゆえに、すでにどうでもいいものであることを露呈している。新しいもののくせに、それが自分で重要であるかのように声高に言うのは、すでにオカマの厚化粧と同様、「キャンプ」であることを自分で告白しているようなもの。本物は、つねにわかりやすい姿で描かれる。わかりやすすぎるために、その時代の評論家たちや似非学者たちに軽んじられるかもしれないが、ほっておいても、そのうちかならず文化の中心に浮かび上がってくる。多少、時間はかかるが、時間は大した問題ではない。

モダニズムポストモダニズムについては、かつて自分も学術論文を書いた。http://www.hi-ho.ne.jp/sumioka-info/resouce/1985dogmaE.pdf