クールの定義

 今日は、キーファー博士の講義。ポストモダンの話が、専門のポップカルチャーに至って、乗りまくっている。

 すごく納得したのが、「クール」の定義。タランティーノがなぜクールなのか、という話で、その「クール」というのが、まさにポストモダンだ、と言う。つまり、ニーチェの言う「強いニヒリズム」をそのものだ。「すべてはすでに語られた」という時代にあって、すでに人に語られ終わって、ガラクタのように意味を失ったものたちを蹴散らして突き進んでいく。たしかに、クール、という言葉にぴったりの説明だ。

 この反対語には、ドイツ語で言う「シュビュール」が挙げられる。直接的には、蒸し暑い、という意味だが、むさくるしい、ホモっぽい、という隠語だ。ここで博士は、スーザン・ゾンタークの「キャンプ」の概念との同一性を論じる。「キャンプ」というのは、フランス語の俗語の「セ・キャンプール」から来た隠語で、サルトルの「実存の自己演技」(自分を演じる)や、ボードリヤールの「シミュラークル」(ホンモノの存在しえないコピー)の延長線上にある。

 「キャンプ」というのは、ゾンタークが典型として挙げている例で言えば、ようするに、オカマの厚化粧、のようなもの。ニセモノだからこそホンモノに見せようとする。ホンモノ、つまり、美女なら、すっぴんでも美女だ。ホンモノに見せようとする必要がない。そもそもホンモノに見せかけようとするようなこと自体ができない。ところが、ホンモノではないものは、ホンモノではないからこそ、ゴテゴテと虚飾を塗り重ねなければならず、しかし、けっしてホンモノになることなく、わけのわからないものになっていく。ドラグクィーンなんて、たしかにもはや男ではないが、どう見ても女には似ていない。

 ゾンタークの文章はともかく、リオタールだの、ボードリヤールだの、そして、日本のニュー赤だの、それこそキャンプの集大成のようなもの。だから、アラン・ソーカルに突っ込まれる。つまり、ポストモダンを唱いながら、その唱い方がきわめてモダンで古くさい。ごちゃごちゃとわけのわからない造語を重ね、似非幾何学の図解を並べ、カントだか、ヘーゲルだかのような希有壮大な体系的論文を組み立てる。ゾンタークは、これらを「キャンプ!」の一言で一蹴する。まさに、クールだ。ウンベルト・エーコの中のゴチャゴチャとその謎解きも、まさにこの蹴散らしとしてこそ、意味を持つ。

 村上隆が欧米で受けているのも、本人が自覚しているように、あれがあまりに下手っぴな現代日本のポップカルチャーのキャンプであり、その蹴散らしだからだ。日本にはもっとうまいやつがいくらでもいる、などと批判するのは、人がなにをおもしろがっているのか、まったくわかっていない。それは、ダランティーノの映画に出てくる日本文化はおかしい、というのと同じくらい、的外れ。トレースの寄せ集めだけで1本マンガを描いてしまった『メガバカ』も、キャンプなチュウボー読者だらけの講談社なんかに持ち込むからいけないんで、クリスティーズに引用元の解説付きで出したら、まちがいなく50万ドルくらいにはなっていただろう。

 ところで、この住まいのオーナーは、見るからに育ちのよい金持ちだ。なにを考えているのか、賃貸のくせに、キッチンは、ブルトハウプにガッゲナウが填め込んである。そのくせ、テレビは、安物のメディオンだ。良いものに対するコダワリ、などという貧乏くさい庶民根性のかけらもない。なんにしても、カタログの最初のページに出ていたから、それに決めただけなのだろう。クールだ。そのガッゲナウの食洗機の調子がおかしい、と言ったら、仕立てのいいパリッとしたカシミアジャケットに、妙なジーパンをはいて、修理屋のおじちゃんと、仲良くBMWのスポーツカーでやってきた。これまた、じつにクールだ。

 こだわってみたところで、しょせんすべては、この世のガラクタ。千利休のように、自分自身がホンモノなら、手に触れるすべてがホンモノになる。王様は、裸でも王様だ。しかし、豊臣秀吉のように、王様ではない者が王様の格好を真似ても道化にしかならない。それどころか、虚勢を張れば張るほど、自分がニセモノであることの虚飾の自重に自滅的に押しつぶされていく。

 とはいえ、キャンプが悪いわけではない。ラスベガスだの、ディズニーランドだの、建物も、そこに集まる人々も、キャンプのジャンボリー会場のようなもので、それはそれで、とってもクールだ。しかし、あんたら、こういうの、お好きでしょ、って、乗せられて、本気で、満艦飾にめかし込んで来るキャンパーはどうか、とは思うが。