ヘルゲ・シュナイダーのオフビートコメディ

 とにかく今、ドイツでは、お笑いが人気だ。伝統的なコメディアン(カバレッティスト)としては、ウルバン・プリオルやゲオルク・シュラムがいる。プリオルは、半ハゲのチリチリ頭がトレードマークだが、意外に若い。一方の、シュラムは、元軍人将校で、心療科医。鉄腕(文字通りの義手)のインテリガミガミ親爺。ほかにもいろいろいるが、基本的に、「話芸(Wortart)」と言うように、しゃべくりまくる。日本の頭の悪いお笑い芸人たちと違い、世相よりも政治や経済の批判を得意として、右も左もロジカルに挙げ足を取って、メッタメタに斬りまくる。

 そんな中で、毛色が変わっているのが、ヘルゲ・シュナイダー。日本では、『マイン・フューラー』で、まともな俳優のように思われてしまったが、あれはかなりイメージが違う。というか、本物の総統のぶっとびように近いのかもしれない。

 シュナイダーの芸風は、オフビート。ドイツ的オフビートというと、ジャーミッシュの映画で知られるようになったが、ルイス・キャロルモンティ・パイソンの英国的ナンセンスとは原理的に異なる、ドイツ的オフビートのお笑いというのが、昔からある。一言で言うと、トンチンカンな老人同士の会話のようなもの。ヒッチコックのウィットやポーランドジョークに近い。シュナイダーは、生まれながらの天然オフビート。日本で言えば、笠智衆みたいなお笑いスタイル。

 彼はもともと天才的ミュージシャンで、ピアノやチェロを弾いて、ドゥイスブルクのコンセルヴァトワールの楽生だった。ところが、あまりにぶっとんでいて、楽譜どおりに弾けず、ジャズになってしまう。その後、庭師だの、動物世話屋だの、わけのわからないことをやって食いつないでいるうちに、そのステージがカルト的な注目を集める。

 そのミュージシャン仲間で、93年から映画も作り始める。『テキサス』『00シュナイダー』は、ものすごい。なにがものすごいって、ひどいのだ。ほとんど子供の遊び。しかし、天才的だ。だいたいこの2つからして、編集がでたらめ?で、『テキサス』の途中で、00シュナイダーが唐突に出てきてしまう。『パルプ・フィクション』どころのぐちゃぐちゃさ加減ではない。シュナイダーが一人何役も演じるのだが、服装が替わっただけ。芸風はすべてシュナイダー本人のまま。そのうえ、ナレーションも、本人。しかし、みんな大まじめ。筋にしたって、むちゃくちゃだ。強盗に襲われ、ようやく街にたどりついた無人の駅馬車の扉が開き、中から、紐で縛られた大きな白い重い袋が、どすっと鈍い音ともに転げ落ちてくる。街の人々とともに、保安官が駆け寄り、袋に触れる。死体か? いや、洗濯物だ。この洗濯物をママに洗ってもらう、とか、もらわない、とかで、話が展開。以下、すべてこの調子。期待を外しまくって、突き進む。主人公が、チューニングのずれたエレキギターで突然に自分のテーマ曲を歌い始めたり、怒りにまかせて、なぜかそこに置いてある木琴を演奏したり。これが即興なのに、うまいし、かっこいい。

 とにかく、全編、わけがわからんが、いけている。とはいえ、ドイツでも頭の固い連中も多い。映画評は、まっぷたつになったが、その後、シュナイダーの映画は、そういうもんだ、ということで、落ち着いてしまった。だから、その彼を、まともな『マイン・フューラー』に起用し、まともに俳優に仕立てた方が、じつはドイツでは驚きなのだ。

 しかし、彼自身は、ああいうまともな出演の仕方は、あまり気に入らなかったらしい。むしろ『ジーベン・ツヴェルゲ(七人のこびと)』で、白隠者をやっている方が、彼に似合っている。この白隠者は、フィッシュパレスに逃げ隠れてしまったのだが、これが別の彼の映画の『ジャズクラブ』に出てくる魚の移動販売車だったりして、そのうえコンサートの実写が混ざっていたり、映画の中と外がぐちゃぐちゃにつながっている。

 映画が完結した枠組を持つ、というのは、額縁舞台の延長的なお約束ごとにすぎない。それを俳優が演じていることは観客だって知っているのだし、演技にすぎないこともわかっている。作曲家はかく作曲したのだ、などと古典の権威を借りて、楽譜通りに演奏するクラシックと違って、ジャズでは、中と外の区別がない。シュナイダーの作品は、それをフィルムでやるとこうなってしまう、という例だろう。それでも、自分本位のフェリーニなどより垢抜けたエンターテイメントになっているのは、シュナイダーが、観客の映画観の先を行って、期待をはずすことで楽しませてくれるから。映画の途中で、突然に、脇役が、足がつった、とか言って、騒ぎ始めるプロットなんて、ふつう、ちょっとやそっとで考えつくものではなかろう。