アスタ・ニールセンとリボンの騎士

 ブルガコワ先生の今日の講義は、デカダンス。なぜデカダンスか、というと、それがまさに記号論マニエリスムの破壊だから。

 演劇がマニエリスムのジェスチャ・シグナルどっぷり浸りきっている時代に、絵画において、世紀末美術が生まれ、映画において、アスタ・ニールセンが出てきた。アスタ、などと言っても、今の日本では、ほとんどわからないかもしれないが、メアリ・ピックフォードなどよりも先駆的な、当時の大人気映画女優だ。

 彼女の何がすごかったか、というと、演劇的ジェスチャのお約束をことごとく無視し、艶っぽいコケティッシュな少女風の演技を繰り広げたから。実際のところ、少女どころか、けっこうな毒婦なのだが、それがまた彼女の演技に、本物の少女にはない深みを与えた。

 先生によれば、当時の男優は、チャップリンを含め、まさに出来合いの記号の羅列だ、と言う。当時は、映画に限らず、男の生き方そのものが画一化しており、現実的な演技であればあるほど、むしろ記号的になってしまう。その一方、世紀末は、伝統社会の枠からはみ出た女性たちが登場した時代であり、その自由奔放な演技は、既存の記号的な女性像は当てはまらない、と言う。つまり、毒婦だからこそ、当時の記号的な画一的女性像とは異なる魅惑的な少女性を持ち合わせえた、ということになる。

 しかし、日本においても、当時、アスタは、ガルボなどと並んで、人気女優だった。どのみちサイレントだし、製作本数そのものが少なかったために、戦前は、アメリカ製だけでなく、フランスやドイツの映画もバンバン、日本(神戸や横浜)に入ってきていた。

 このアスタ・ニールセンの代表作に『ハムレット』(1921)がある。もちろん彼女が、主役のハムレット王子だ。このために、この映画は、ものすごい独創的な改作をした。話は、ハムレットが生まれるところから始まる。王は、かねてから弟が王位を狙っていることを知っている。王子が生まれれば、その野望を断つことができる。ところが、生まれたハムレットは、女の子だった! そこで、王は、やむなくハムレットを世継の男の子として育ててしまう。

 こんなおもしろい前提をくっつけたら、話が根本から変わってしまう。ハムレットは学友ホレイティオを愛している。しかし、ホレイティオはオフェーリアに恋をする。そこで、ハムレットは、オフェーリアを口説く。しかし、そのうち、ハムレットは、「女に惚れるような女は、尼寺へでも行け!」と正体を現し、オフェーリアは発狂。その兄が、母と王位を奪った叔父王にそそのかされ、ハムレットと差し違える。そして、ハムレットは、ホレイティオに抱かれながら、愛を告白して死ぬ。

 どのみち悲劇なのだが、この方がだんぜんドラマティックだ。この映画の影響で、本物の清朝王女である川島芳子(川島家へ養子)は、断髪して男装の麗人となり、東洋のマタハリとして謀略に暗躍。当時、この映画を見た手塚治虫も、戦後、『リボンの騎士』を作る。池田はどうか知らないが、『ベルサイユのばら』も、明らかにこの設定のヴァリエーションだ。

 話は元へ戻るが、ヨーロッパの先生方の話を聞いていると、つくづく日本の研究は、いずれも学科縦割で、あまりに視野が狭いと思う。英語、ドイツ語、フランス語、イタリア語、ロシア語が飛び交い、美術史や演劇史から世相史、映画史へ、と自由自在に展開する広がりは、やはり基礎教養が大切だと思わせる。