身体表現とマンガの記号性

 今日はブルガコワ先生の講義の初回。身体表現の記号性について。映画の中には、日常的な自然な振る舞いとは明らかに違う、表現としての身体がある、と言う。そこで出てきたのが、サイレント映画の数々。言われてみれば、たしかにすごい。単純なオーバーアクション、というより、いくつも比較すると、完全に定型化していて、演技としてのオリジナリティなど無い。つまり、サイレント映画における演技は、このようにオーバーアクションであることで、それが日常的な自然の振る舞いとは異なる明確な身体表現の記号として提示されており、それゆえ言葉なしにでも、普遍言語として世界中に通用しえた。

 しかし、興味深い事例として出してきたのが、人の物まねを演じるピエロのシーン。サイレント映画だから、もともとがオーバーアクションで記号的だ。それが、ピエロによって、引用的に再現される。ここで問題になるのが、身体表現の引用、ということ。不可識別者同一性が確保されている文字であれば、引用は引用元と同一だ。ところが、ピエロの物まねは、明らかに誇張であり、カリカチュアになっている。そこには、記号を提示する、という演技がある。

 この話は、ややこしい。役者がある人物を演じ、その人物は物語としてピエロであり、そのピエロが人の物まねをしている。となると、この身体表現は、いったいだれの振る舞いなのか。近年のナラーティヴセオリーで、さんざん主観の重層性については論じられているが、客体の主体性の重層化問題というのは、あまり聞いたことがない。

 物語として、警察署長が犯人たちの黒幕だった、という設定はよくあるが、こういう場合、演技としての重層性は、まず無い。編集でつないだだけ。それこそ、警察署長としての振る舞いと、黒幕としての振る舞いが、平板な記号として提示されるだけ。マンガなども同様だ。演技をしている演技、というのは、マンガや、マンガ的映画では表現できない。となると、映画は、サイレントであっても、記号性以上のなにかがある。

 サイレント映画における表現記号は、サイレント映画で初めて成立したものではない。それ以前の演劇、さらには絵画(とくに古代の物語や寓意画を描いたマニエリスム)ですてに定式化されていた、そうだ。実際、言われてみれば、お約束ごととしてのポーズは、ルネッサンスのころにさまざまに模索され、マニエリスム以降、まったく同一のまま、現代に至るまで、反復され続けてきている。また、サイレント映画によって、この身体表現記号は国際化し、日本においても、新劇や宝塚の演出に大きな影響を与えた。これが、その後のマンガやアニメの記号性につながっている。手塚治虫はもちろん、たとえば、げっ、とか、だー、とか、赤塚不二夫高橋留美子のマンガのギャグなど、こんなのばっかりだ。アニメでも、長浜忠夫が、こういうサイレント映画的な身体表現を積極的に取り込んだ。だから、バンクで、同じセルの使い回しができる。逆に、セルの使い回しのできない宮崎駿のアニメーションは、映画的、なんらかの記号性を越える演技の重層化を含む、ということになる。

 いろいろ考えさせられることの多い話だったが、学生はダメだ。難解すぎて、完全に引いていた。そりゃそうだろう。これ、大学院レベルで、ナラーティヴセオリーとか、記号論とか、ひととおり学んでからでないと、まったくわかるまい。受けていたのは、エルヴィスの話くらいか。いったい、この後、どうするのだろう。