ネットストーカーのこと

 どうも人の興味を惹くのか、私の周りには数年前から何人かのネットストーカーがいる。有名人でもないので、たいして多くもないし、影が分裂してうごめいているだけなので、まあ、ほっておいているが、アクセス解析など、なにかの拍子に、その本体が表に見えることがあり、とても興味深い。

 テレビ局で仕事をしていたころも、出演者に対する、いわゆる電波さんたちの対応も担当していた。電波さんたちの存在については、待ち伏せして、いきなりスリッパで芸能人の頭をたたく『電波少年』で、すっかり一般にも知られるところとなった。電波さんというのは、テレビ局に対し、電波を送るな、頭がしびれる、と苦情を行ってくることから名付けられたもので、話によればラジオの時代から、こういう人々がいるらしい。

 私も、何度も、彼らの苦情を、実際に直接に聞いている。専門的に言えば、彼らの多くはどうも解離性障害に近く、自分の生活を誰かにのぞき見られている、自分の体が誰かに操られている、自分の作品や名誉が奪われている、等々の被害妄想を訴え、その一方、その自分の様子を外から見ている離人症を併発しているらしい。また、攻撃的な鬱状態(新種でもなんでもなく、昔からいると思う、ただし鬱病の鬱とはあきらかに違うと思う)にあり、社会正義と一体化していることも、特徴的だ。自分の被害のためでなく、社会の不正を正すために自分は行動していると強く信じている。たとえば、テレビのスタジオのセットの本棚にある本は、本当は自分の著作で、それは評論家のだれだれにパクられたものだから、すぐにどけろ、ああいう盗作をするやつをテレビに出すな、とか。そのわりに、彼らの手紙(当時はまだEメールがなかった)は、たいてい匿名だ。うまく電話で直接に話せたりすると、知的障害などはない。むしろ理屈っぽく能弁だ。だが、やはりおかしい。全体の筋は通っているのだが、個々の部分の事実性、部分と部分の実証性が、まったく無い。そして、とにかく激しく感情的だ。

 もちろん話にならない。が、電話を切っても、またすぐにかけてきて、交換の女性に、番組の方でなんかしてくださいよ、と、泣きつれるだけなのはわかっているので、ずっと誠実に応対。ただ、話を聞いていると、彼らは、最初、推測として話し始めたことが、次の段階では事実に変わっていることに気づく。様相(canとか、mustとか)を保持することができない。つまり、助動詞的な発想に障害があるらしい。もしマルマルならば、とか、もしマルマルだとしても、というような仮定法や譲歩法もダメだ。当然、婉曲話法もダメ。である、と、でない、だけの事実の世界に生きているらしい。だから、主観性を自覚できず、直接に社会正義と一体化してしまう。これでは、現実から遊離し、社会関係を確立できないのも当然だろう。(らしい、だろう、なんていうのも、彼らには無理。)様相というのは、物事の認識の中に割り込んでいる主観性を自覚すること。しかし、解離性の障害があると、主観自我が不安定で、これができないのだろう。とはいえ、ある意味で、彼らの言語表現は簡潔明快、断定的で、わかりやすくもある。ヒットラーの演説なども歯切れがいいが、やはり似た障害があったのではないだろうか、と思う。

 結局、解決などつかない。とはいえ、対応にコツはあった。けっして彼らの言い分を否定せず、なるほど、よく調べてみます、と言う。そうすると、とりあえず納得する。彼らは、自分では現実を調べることができない。なにしろ離人状態で、自分自身の存在すら不安に満ちている。だから、執念深く、手段を尽くして調べ続ける。しかし、自分で調べれば調べるほど、不安と妄想がふくらみ、事実と可能性の区別がつかなくなる。だから、よけいストーカーのように調べ続ける。学者の中に、この種の気質を持った者が少なくないのも、こういう理由だからだろう。

 フロイトユング精神分析(器質障害の考察ではなく妄想内容の考察)で言えば、彼らが憑依するのは、シャドウと呼ばれる自分の影だ。というより、彼らの方がどうやっても影なのだが。だから、芸能人のように光の当たる人物に憑依する。彼らは、自分の生きられなかった理想的人生を謳歌している者に自己投影しつつ、自分の現実を嫌悪し、つねに未来を奪い取られた者として、自分の未来を奪い取った犯人と思い定めた相手に対し、ルサンチマンに凝り固まる。だから、自分の影の本体となる他者に依存せずにはいられず、崇敬と憎悪を繰り返す。ジョン・レノンを殺した男が典型だろう。恋愛におけるストーカーも同様で、熱烈な愛情(影の自分)と、その愛情が築くはずだった自分の未来を破壊したことに対する社会正義(離人状態)としての制裁に大きく揺れ動く。というのも、彼らにとって、はずだった、などという反実様相の余地はなく、彼らにとって、すべてはすでに事実だから。

 彼らは、笑わない。つねにくそまじめだ。というより、精神障害として、笑えないのだろう。笑う、というのは、思い込みを引きはがされ、主観性を自覚させられる、自分のバカさ加減を思い知らされる瞬間に起こる。たとえば、威気高な人物が登壇するとき、見守る人々も緊張している。ところが、その人物が階段でこけた場合、見守っている人々の思い込みもこける。外国のお笑いでも、まず基調となっていた波長に染まっていないと、我々の思い込みに対して突っ込まれている笑いどころがわからない。解離性障害の場合、外国人のように、まずこの思い込みの基調が社会と共通化していない。だから笑いどころがわからない。また、彼らの思い込みをネタにして無理に突っ込めば、自分の主観性を自覚して笑うどころか、事実論争をふっかけられたとしか思わず、激怒して執念深く反論してくるだけだ。この種の障害は、言って直るものではないのだから、無駄に恨みを買うような余計なことはしない方がいい。というより、親族か仕事かでもなければ、もとよりこの種の人物に関わって良いことは何も無い。常軌を逸した崇敬の直後には、やはり常軌を逸した憎悪が待っているだけだ。

 宮崎駿が、『千と千尋』で、顔無しを出してきたのは、とても興味深い。彼など、それこそまさに多くの顔無しに取り囲まれ、あれやこれやつきまとわれて、かなり大変なのだろう。社内にも、そういうのが多いらしいし。ところが、『ゲド』では、あの会社は、むしろ顔無し使いになって、映画評の作成を裏でいろいろやっていたかような噂も高い。だが、まさに、このグレーな領域が、顔無しには耐えられず、どちらかの断定に走るのだろうが。しかし、御本尊と顔無したちが共生してしまったのでは、それこそ新興宗教のようだ。芸能人たちは、事務所を介することによって、彼らをうまく養成し、カネを吸い上げている。しかし、ネットの発達で事務所の壁を突破されやすくなった現代において、病的気質の者を客にするこのビジネスモデルは、もはやリスクの方が大きいのではないか。

 ネットは、まさに顔無しの天国。というより、村落的な共同体を失った、いまの政治やマスコミの構造では、経済格差だけでなく、有名人とパンピーの二極格差を生じており、パンピーでは、名乗ったところで名前としての意味をなさない。しかし、もともと都会など、そういうものだ。だが、その一方、病的気質のある人々をさらに悪化させているようにも思う。明日から本気出す、本当の自分はこんなものじゃない、なんて、言いながら、ネットにこびりついている間、結局、本当の自分の明日を見失う。それは、光と未来を人に奪われたのではなく、築こうとしなかったからにほかならないと思うが、良くも悪くもやたらと強固に安定した今の日本の現実では、正統派の社会的エスタブリッシュの構造が堅く、そう簡単に永遠の亡者屋敷から抜け出せないのも事実だろう。

 だったら、それこそ、海外にでも飛び出したらいい、と思うのだが。しかし、そうしたら、それはそれで、今度は、自分は国を追い出された、とか、恨むのだろうか。でも、海外は暮らしやすいぞ。トルコの人とか、アルジェリアの人とか、どんどん来ているぞ。